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三国志漂流
すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。
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三国志の世界は、いくつかの「次元」における抗争・対立で構成されています。
「三国志」の文字通り、魏呉蜀三国間の抗争は漢民族の「次元」における抗争で、最も華々しい世界です。
ただ、それ以外にも漢民族と異民族の対立という、もうひとつの異なる「次元」によっても三国志の世界は構成されています。
曹操による北方異民族・烏丸族の討伐、諸葛亮による南征は、『演義』でも取り上げられるほど有名です。
さらに、『正史』を紐解いてみると、魏は烏丸族以外にも鮮卑族他の遊牧騎馬民族の脅威に度々晒され、呉は「山越」などと呼ばれる山岳少数民族の叛乱に恒常的に悩まされ、蜀では南中(現雲南・貴州両省一帯)の少数民族による叛乱が頻発し…中華圏の至るところで、息つく暇もないほど異民族対策を強いられていたことがわかります。
このように異民族対策が各国の重要な政策のひとつであった以上、異民族対策で名を馳せた人物も各国に存在していました。
蜀の異民族対策のエキスパートといえばこの人、張嶷です。
『正史』では「チョウギ」と読まれ、『演義』では「チョウギョク」と読まれる、諸葛亮没後の蜀後期に貢献した勇猛な武将にして有能な政治家です。
北方の羌族討伐を手始めに、南方のテイ族、リョウ族、叟族、捉馬族、旄牛族、槃木族etc.『正史』に記載されているだけでもこれだけの異民族対策を、第一線で講じ続けました。
その功績は、彼の生存中に劉禅から「撫戎将軍」(「異民族を鎮撫する将軍」の意)の称号を授与されるほどで、蜀の中でも群を抜くものでした。
生涯のほとんどをかけて異民族対策に奔走する…という特異な経歴を誇る張嶷ですが、彼が異民族対策で実績を挙げ続けることができた理由はどこにあった
のでしょうか?
それが、今回のテーマです。
今回は「異民族対策のエキスパート」張嶷を、彼独自の異民族対策テクニック、彼を内面から支え続けた辺境経営にかけた想い、そしてそのモチベーションの源泉に焦点を当てて紹介していこうと思います。
●異民族対策のテクニック●
まずは、張嶷の活躍の舞台となった南中・越スイ郡がどのような地域であったのか?を確認します。
越スイ郡は、成都や峨眉山の南方、現在の四川省・西昌一帯にあった郡です。
張嶷の赴任以前、雍ガイや孟獲による南中叛乱が起こった頃(223年)のお話。
諸葛亮は南中叛乱の対策として、一時、越スイ郡の霊関を閉ざしました。
なぜ霊関が閉ざされたのかというと、当時、霊関が蜀と南中の境と認識されていたからです。
これにより、南征が実施されるまで、南中叛乱の拡大を防ぐこと、蜀の国力充実に努めることができました。
その後、諸葛亮の南征により、南中叛乱はあっけなく鎮圧されました。
しかし、越スイ郡の治安は安定から程遠い状態が続きます。
赴任する越スイ太守が、地元の少数民族・叟族により次々に殺害。
しまいには、任命される太守が、実際は越スイ郡に赴かないで名目だけ統治するという異常事態が続いていました。
張嶷が赴任した越スイ郡というのは、このように漢民族政権の直接的な影響圏と異民族独自の生活圏が微妙に重なり合う難しい土地柄だったといえます。
ほぼ無政府状態にあった越スイ郡への赴任後、張嶷がとった異民族対策は、硬軟併せもつとても柔軟な対策でした。
対策の基本は、硬軟のうちの「軟」。
すなわち、異民族に対して「恩愛と信義」を示すことによる懐柔策でした。
帰順する者には寛大に対応し、また反逆する者にも征伐、捕縛、そして身柄を釈放することで帰順を呼びかける…というもの。
諸葛亮が孟獲に対して行なった「七縦七擒」を彷彿とさせる、忍耐強く、しかし異民族を心服させるに足る対策でした。
このような張嶷の懐柔策により、多くの異民族が時間をかけて帰順することになります。
一方、「硬」の対策は、蜀の国策のひとつである「南方経営による国家経済の回復」に沿うもの。
詳しくは後述しますが、主に塩や鉄の搾取遂行です。
越スイ郡の一地方である定筰でのこと。
塩や鉄の専売権を握っていた狼岑という、異民族からの信頼厚い人物がいました。
政府が塩や鉄の専売権を握ることができるよう話をつけるために、張嶷は彼に幾度か面会を求めました。
しかし、狼岑は面会を拒絶し続けます。
そこで張嶷は狼岑を捕らえ、鞭で叩き殺し、遺体を部落に送り返してしまいます。
普通こんなことをされたら、部落民は激怒しないはずがありません。
しかし、張嶷はアフターフォローを忘れませんでした。
狼岑の悪行を部落民に説き聞かせることで自分の行為を正当化し、さらに恩賞を与え、宴会を催すという懐柔策も忘れず行い、結果的に部落民の帰順と塩や鉄の専売権を奪取することに成功しました。
このように国策を遂行するためには手段を選ばない張嶷のやり方は、蜀政権首脳部にも支持されていたことでしょう。
以上のような張嶷の異民族対策は、いわゆる「善政」の部類にあったものと思われます。
もっと言えば、『演義』にある有名な諸葛亮南征のくだりは、張嶷の「善政」をモデルとして様々に肉付けされた…とも推測したくなるほどです。
張嶷伝は、次のような一節で締め括られています。
「南方の越スイ郡の蛮民たちは張嶷の死を知ると、皆涙を流して悲しみ、張嶷のために廟をたて、四季ごとと洪水・旱魃があるたびにこれを祭った」
●辺境経営への想い、モチベーションの源泉●
張嶷は、蜀臣・費イの刺殺、呉将・諸葛恪の没落(いずれも253年)を予見していました。
南中という辺境にありながら、大局的、かつ誤りのない確かな鑑識眼をもっていた張嶷。
そんな確かな鑑識眼を備えた張嶷が、約15年間に及ぶ南中赴任を引き受けたからには、張嶷自身見出していた南中赴任の意義があったに違いありません。
彼なりの南中赴任の意義とは、何だったのか?
それは、南中における辺境経営が、経済的に逼迫する蜀を支えるためのもはや欠くことのできない政策であったこと…だったのではないでしょうか。
劉備の東征、諸葛亮、姜維による北伐…蜀建国後、絶えることのない戦争。
戦争は膨大な人的、物資的資源を消費し、国の経済を強く圧迫します。
中国全15州(当時)のうち、1州(益州)のみしか押さえることができていなかった蜀の経済力のどこに、そのような膨大な人的、物質的資源を供給し続けることができる秘密があったのでしょうか?
その秘密を解く鍵のひとつが、張嶷が生涯のほとんどをかけた南中経営だったということです。
彼が身を粉にして異民族の鎮撫に努めた結果得たもの、それは個人的な蓄財などとせせこましいものではありません。
彼は自身が重病にかかっても医者にかかることができず、知人に頼らざるを得ないほどの慎ましい暮らしを送っていました。
元来「清貧」だった彼が得たものは、経済的に逼迫していた蜀という国家に対する、物的資源と人的資源でした。
南中は、塩や鉄を多く産する希少な土地柄。
海洋に接していない蜀にとって、生活必需品かつ恐らく供給不足に悩まされたであろう塩、そして戦争や農耕に欠かせない鉄の供給を行なうことができました。
また、時に彼は、南中から北方に強制移民を行なうことで、農業生産性の向上や軍兵の増強を図ったりもしました。
南中の異民族で編成された軍兵はとくに「飛軍」と呼ばれ、蜀軍の最精鋭の一角を担っていました。
…まさに、徹頭徹尾後方支援人生。
彼の南中での働きのおかげで、魏呉蜀三国中で最弱の国・蜀の命運が少しでも先延ばしにされた…といっても過言ではないと考えます。
●張嶷、北方に死す●
人生の大半を南方での異民族対策に捧げた張嶷の最後の地は、北方の戦場でした。
南中での長期に亘る激務が祟ったのか、晩年に重度の麻痺症を患っていた張嶷。
思うように動かなくなった身体を引きずって、敢えて姜維の北伐に従軍します。
長年南方から経済的に支え続けた北伐という表舞台への憧れは、武将・張嶷の中に少なからずあったのでしょう。
『正史』では、魏の討蜀護軍・徐質との合戦中に「陣中で落命」したと、張嶷の最後を伝えています。
「陣中で落命」…戦死なのか?持病の麻痺症の悪化による死なのか?推測するしかありませんが、私は壮烈な戦死だったのではないかと思います。
『正史』の姜維伝に、姜維が徐質の「首を斬り、敵を討った」との記述もあります。
私は、こう読みます。
徐質との合戦中、戦陣で采配を揮っていた張嶷は、奮戦の甲斐なく身の不自由から戦死…しかし、「味方の損害の倍以上の敵兵を殺傷した」張嶷の働きにより弱体化した魏軍を、姜維が弔い合戦の形で打ち破ったのだと。
異民族対策のエキスパートとして蜀を裏から支え続け、最後は蜀の国運を賭けた国家事業であった北伐の戦場に死す…蜀に生涯を捧げた張嶷は、約1,800年を経た今でも四川省・成都にある武候祠に祀られ、その功績を称えられています。
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