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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

貨幣経済の質的変化(柿沼論文を読んで) 

久しぶりに、BLOG更新します。
しかも、グルメ三国志以外の記事で。
2/25、NPO三国志フォーラムのTwitter上でのつぶやきで紹介された
柿沼陽平「三国時代の曹における税制改革と貨幣経済の質的変化」(『東洋学報』第92巻第3号)
を、国会図書館でコピって読んだのでメモ程度に残しておこうと思います。
数年前から三国志な時代の経済とくに貨幣経済に興味があるので、ドンピシャなタイトルにグッときました。
ただしメモ書きなので人様に晒すにはわかりにくくスミマセンが、ご容赦ください。

ちなみに「貨幣」という単語は「経済的流通手段」と定義され、近現代的な「銭」だけを指すものじゃありません(黄金、布帛、穀なども含まれます)。

まずタイトルにある「貨幣経済の質的変化」って何か?
私の拙い解釈で勝手にまとめてみると

[戦国秦漢貨幣経済の構造]
銭=国家供給型の国家的決済手段兼経済的流通手段
布帛=民間供給型の補助的貨幣

貨幣経済の構造]
銭=国家供給型の経済的流通手段
布帛=民間供給型の国家的決済手段

という構造上の質的変化を指しています。

この質的変化をもたらしたのは
①漢代の布帛生産量の漸次的増加
②銭は急速に信用を失い、国家的決済手段としての公的な流通はほとんど停止した
という2点です。

銭、布帛といった各貨幣を「手段」に応じて構造化している点はわかりやすく、新鮮です。
今後整理して論考を深めるにはハッキリとした道しるべになってイイですね。

その他、私個人の興味に沿って気になったところを順不同で挙げておきます。

■前漢武帝期の塩鉄専売制は、布帛を国家的税収とすることも企図されていたこと。
知りませんでした…塩鉄の専売は、生活必需品を国家が一元管理することで国家収入増を図るというレベルの認識で、塩鉄を入手するために布帛の自給と捻出が民にとってはセットになっている、という認識がなかったです。

■孫呉では実態として銭が農村にまで深く浸透していたこと。
孫呉の貨幣政策については過去拙BLOGでも書きましたが、孫呉が大銭しか発行しなかった事実とセットで考えを深めるとおもしろそう。

従来多くの先学は、漢代銭納税制の実態に言及する際に、農民は入手困難な銭の代わりに布帛等を代納していたと推測してきたのだが、本史料(孫呉・走馬楼呉簡「嘉禾吏民田家莂」)によれば、孫呉では本当に銭を納税手段として用いており、それゆえ当時の農民は何としても銭を入手せねばならなかったことになる。これは孫呉が、「銭=国家的決済手段」を軸とする漢代貨幣経済の特質を濃厚に継受していた


曹丕が五銖銭を「復」し、「罷」めた理由のひとつに「仏像建立による青銅消費量増加」があったらしいこと。
本当か?
マクロ経済に影響を及ぼすほどの仏像建立が曹の文帝期に??
仏教伝来済みとはいえ…そこまでの建立が本当にあり得たのでしょうか、疑問。

背景について全漢昇氏は、①戦乱による経済混乱、②人口激減、③青銅供給量の減少、④仏像建立による青銅消費量増加の四点を挙げる。


■大司農である司馬芝が五銖銭復活を上奏したことに矛盾はないということ。
明帝期に五銖銭復活を上奏した司馬芝が、戸調制の基礎である男耕女織を重視した大司農であることは、一見すると違和感や矛盾を覚えませんか?私は覚えていました。
が、上述のように銭と布帛がもつ役割の構造上の変化を踏まえると、大司農である司馬芝にとっても、戸調制継続と五銖銭復活とが必ずしも矛盾するものではなかったといえます。
これも発見です。

理解が及ばず、誤った理解をしている可能性大ですが、とっても参考になりました。
いやー、柿沼氏にお会いしたい…。

※引用はすべて
柿沼陽平「三国時代の曹における税制改革と貨幣経済の質的変化」(『東洋学報』第92巻第3号)
[ 2011/03/06 03:32 ] 08:貨幣政策覚書 | TB(0) | CM(4)

「三国志感謝祭」覚書-呉の貨幣政策 

10/30(土)に開催された「三国志感謝祭」の覚書第2弾です。
前回触れた「『蜀地方』における仏教」のほかに、もうひとつ私の関心事と重なる質問がありました。
「呉の貨幣政策」に関する質問です(厳密には「インフレ」という表現でしたが)。
触れだすと長ーくなりますし、まだ私も調べている真っ最中だったりしてまったく完全ではなかったりしますが、一旦概要だけ覚書として残しておきます。
誤解がないように補足しますが、この記事は当日の内容ではなく、当日の内容をきっかけに私が勝手気ままに書いていることなので、悪しからず。

☆★呉の貨幣鋳造の歴史★☆大泉當千

222-236年(黄武-嘉禾) 「大泉五十」銭鋳造
236年(嘉禾5年)       「大泉五百」銭鋳造
238年(赤烏元年)       「大泉當千」銭鋳造
245年(赤烏8年)※推測   「大泉二千」「大泉五千」銭鋳造
246年(赤烏9年)       大銭鋳造、全廃。以後大銭鋳造なし

ポイントは2つです。
1.呉の貨幣鋳造の歴史は、孫権が皇帝に即位した後の約10-25年という期間に過ぎない。
2.呉における鋳銭はすべて額面が大きな貨幣のみ(「大銭」といいます。基準銭は「五銖銭」)。かつ、五十から五千まで額面は大きくなる一方。
※ちなみに「呉には鄣郡(会稽郡あたり)の銅山があり」(『漢書』荊燕呉王伝)、鋳銭の材料となる「銅」は前後漢代を通じて採掘が可能だったと考えられます。
上記『漢書』の引用箇所は、前漢代に起こった「呉楚七国の乱」の中心人物・呉王劉濞が、銅山を活用した鋳銭権の濫用を行っていた記事の一部です。
『劉邦の大風歌 漢建国記』という中国ドラマの第40、41話あたりで「呉王(劉濞)の公金横領」とか「鋳銭権の濫用」として登場するので、お近くのレンタル店にあったら借りてみてください。
http://www.clubit-arena.net/ca/titledetail.php?filename=D-EC141
※画像は私所有の「大泉當千」実物です。直径約34mm。

☆★呉の貨幣政策の解釈★☆

[大銭鋳造の理由]
財政補填のため。
財政収入の拡大を企図したものでした。
「大銭鋳造」が意味するところは、少ない財源で多額の貨幣を鋳造発行し、基準銭で買える以上の物を社会から買い上げようとしたというものです。

[貨幣政策の評価]
失敗。
『呉書』呉主伝によると、大銭を鋳造した理由は「貨を広くす」と言い、廃止の理由は「民意以て便と為さず」と言っています。
「貨を広くす」とは、通貨不足に対処して貨幣総額を拡大することを指します。そして「民意以て便と為さず」とは、大銭は民衆(主に商人)に受容されず、額面どおりに流通しなかった(減価していた)ことを指します。

つまり、とくに大銭発行失敗の原因は以下の2つに集約されます。
1.社会に受容されなかったこと
2.減重(貨幣の重量が徐々に軽くしてしまう/なってしまうこと)による貨幣価値の低下

貨幣の流通には、背景としての社会的な信頼が欠かせません。
貨幣が社会的信認を受ける方法は、発行した大銭を政府が必ず回収することです。
つまり、額面どおり国庫に通用する保証を与えること=租税などで納入される大銭を受け取ることなんですが、国家が高額面の大銭を受け取るのは、放出する際とは反対に損失になります。
なぜなら、「大銭」の基本的な性格として、基準銭の価値と重量に比例した額面と重量とを備えていないからです(この性格は呉の「大銭」に限ったものではありません)。
「五銖銭」は「5銖」という重さを名称の由来とした貨幣ですが、呉での基準銭はこの五銖銭だったと考えられています。
呉で鋳造された「大泉五十」の重量は「12銖(約8g)」で、「大泉當千」の重量は「16銖(約11g)」です。
名称は50枚に値する(五十)、1000枚に値する(當千)でありながら、重量的にはまったく比例していないのです。
五銖銭も当時は減重しているので厳密ではないですが…イメージとしては以下のような感じです。

五銖銭3枚ほどの価値しかない貨幣を「50枚に匹敵するんだ!」として政府が新貨幣を発行します。
すると、五銖銭を発行するよりも五銖銭47枚分の儲けが政府に発生します。まさにボロ儲け。
でも、五銖銭50枚分の税金を新貨幣1枚(実質五銖銭3枚分の価値)で納めると、政府は実質五銖銭47枚分損することになります。ボロ損。

こういうわけで、政府としては放出時は大銭により大儲けができるのですが、いざ回収となると大損してしまうのです。

上述のように
■基準銭で納入させ、それを原資として改鋳し大銭を鋳造する
■大銭を回収し、社会的な信認を得る
というのは大銭発行が抱えるジレンマであり、このジレンマを克服して、政府が大銭を回収してこうむる損失を防ぐ手立ては
1.大銭の減重を実行する
2.さらなる高額面の大銭をつくる
のいずれかぐらいしかないのです(根本的な解決にはまったくなりませんが)。
呉が徐々に高額銭を発行したのは、上記「2」の手立ての実行です。

はっきり言うと、呉の大銭鋳造は当初から結末が見えきっている「場当たり的な失策」でしかなかったのです。
それでも孫権の偉いところは、そんな失敗が約束された貨幣政策を被害が甚大になる以前に見切って二度と同じ轍を踏まなかったことでしょうか。

[参考文献]
『中国銅銭の世界 銭貨から経済史へ』(宮澤知之著/思文閣出版)
『貨幣の中国古代史』(山田勝芳著/朝日新聞社)
[ 2010/11/03 15:40 ] 08:貨幣政策覚書 | TB(0) | CM(0)

「三国志感謝祭」覚書-「蜀地方」における仏教 

10/30(土)は新宿ロフトプラスワンで開催された「三国志感謝祭」に参加。
約3時間(+有志で朝まで…)どっぷり三国志な世界に浸ってきました。
加藤徹先生や満田剛先生という三国志に造詣の深い両研究家をはじめ、「三国志大戦」でおなじみのこままりえさん、サマソニなどで大活躍のおもしろ三国志さん、そして主催者の三国志活動家 坂本和丸さんらによる観客参加型のトークを中心に、おもしろ三国志さんの凱旋ライヴ(アンコール付き!)やレンタル開始のドラマ『三国志』特別上映などなど、盛り沢山の内容でお腹いっぱいになりました。
「三国志感謝祭」の詳細な内容は参加者のみなさんが各々書かれているので、私はとくに当日質問として出た「三国志な時代の仏教、とくに『蜀地方』における仏教」に関して、私の知る限りのことを列挙してメモとして残しておこうかと思います。
私も当時の仏教については少なからず興味があります。
なぜなら文献や出土品から、中国に伝来した最初期の仏教に触れることができるのが、後漢時代であり、三国志な時代だからです。
私が自宅に蔵している展覧会の図録や、書籍から、とくに「蜀地方」で頻繁に出土する「揺銭樹」に見られる中国最初期の仏教の有り様について触れてみようと思います。

揺銭樹とは?

後漢から三国時代、三国では蜀にあたる四川地域特有の副葬品。神獣が浮き彫りにされた陶製の台座に、青銅製の枝が取り付けられ、枝の天頂には朱雀が、枝には天上世界を思わせる西王母や一角獣などと共に、漢代に流通していた「五銖銭」が枝全体に所狭しとあしらわれている。
揺銭樹1
緑釉当座銅揺銭樹/墓に副葬する銭のなる木
後漢(25-220)
1983年8月、四川省広漢市万福獅象村出土

揺銭樹全体の高さ152.0cm、台座:高48.0cm
広漢市文物管理所

大三国志展』(2008年東京富士美術館)図録掲載


これは『大三国志展』でも展示されていた「国家一級文物(日本の国宝に相当)」に関する解説の抜粋です。
揺銭樹のオーソドックスな形態だと思われます。
このような揺銭樹の一形態として、「仏像」が配されたものが出土しています。

揺銭樹とは、死後の富貴や繁栄を願って墓に埋葬された副葬品で、後漢から三国時代にかけて、現在の四川省、陝西省、雲南省など中国西部で流行した。揺銭樹は本来、中国古来の神仙思想に基づく西王母などの図像を伴うが、そこに仏像も表されるようになった。
この作品は、陶製の台座上に揺銭樹の幹が伸び、その頂部に仏坐像を浅く浮彫する。幹には熊や大きな璧がつき、枝には銭や仙人など神仙世界を示す図像がみられる。
揺銭樹に仏像を表す場合、この作品のように頂部でなく樹幹に配する例が多く、その仏像は口ひげをつけ、通肩に衣をまとったガンダーラ風に作られる。本作品の仏像は、やはり一見ガンダーラ風だが、衣の襟元に放射線状の文様のあることや、腹前の円形の刻線表現が特異である。なお、写真の面は左手が施無畏印(せむいいん)、右手で衣の端をつかむが、裏面は左右が逆になる。
揺銭樹に表わされた仏像は中国に現存する遺品としては最古に属し、仏教伝来の初期に仏像が神仙と同様のものとして受容されたことをうかがわせる遺品として非常に重要である。
揺銭樹2揺銭樹3
仏像付揺銭樹
銅、陶製
現存高93.5、台座+樹幹81
陝西省城固県出土
後漢時代・2-3世紀
城固県文物管理所

『中国国宝展』(2004年東京国立博物館)図録掲載


写真を拡大して見てください。
口ひげが特徴的なガンダーラ風仏像の彫像です。
陝西省城固県とは漢中市から約3、40kmの地域です。
最初期の仏教がシルクロード経由で伝来したと考えると、漢中市という土地柄は伝来の途上もしくは少し離れた沿線上にあると捉えられるでしょうか?
仏像が配された揺銭樹は、他にもあります。

彭山は四川省成都市の南郊に位置する。この作品も後漢時代の墓から発見された。
中央に坐仏、仏の両脇に胡服を着た1対の人物を表わし、下に璧と思われる円形飾りをはさんで龍虎が向かい合う。仏は通肩に衣をまとい、おそらく右手は施無畏印を結び、左手は衣をつかんでいたのだろう。頭部は、地髪部に縦線、肉髻は横線を刻んで頭髪を表わしている。肉髻に横線を入れるのは、インド、マトゥラーでクシャーン朝(1~3世紀)に作られた初期仏像の巻貝形肉髻を思い起こさせるが、着衣形式や印相、地髪部に毛筋を刻むやり方などは、同じ時代のガンダーラ仏を手本としたとみる方が自然であろう。
現状は後ろ部分を欠損し、また下部にも欠損があると考えられ、当初の形状は明らかでない。彭山崖墓で出土した銅製品は非常に少ないが、この台座の出土した116号墓では、同姓の揺銭樹断片がわずかであるが見つかっている。このように、現存遺例からみた中国最初期の仏像は、仏教寺院ではなく、墓から副葬品の一部として見つかっている。
揺銭樹4
仏像付揺銭樹台座
陶製
高21.3
1942年、四川省彭山県116号墓出土
後漢時代・2-3世紀
南京博物院

『中国国宝展』(2004年東京国立博物館)図録掲載


こちらは成都近郊から発見された、仏像が配された揺銭樹の台座です。
シルクロードを前提にすると漢中市よりも明らかにルートから離れた場所での出土です。
「蜀地方(現四川省)」での出土であることから、伝来ルート上の狭域的な事象ではなく、当時の人々の宗教・信仰に何らかの影響を及ぼした結果が表れていると考えても差し支えないのではないでしょうか。
また、個人的に興味深いのは明らかに「三尊形式」で形作られていること。
この三尊形式も、巻貝形肉髻と同様にインド、マトゥラーにおいて見ることができるそうです。
初期ガンダーラでの脇侍は帝釈天と梵天だそうです。
この出土品ではたしかじゃありませんが、伝来の形を推測するのには面白い材料なんじゃないでしょうか。

最後に、書籍からまとめのお言葉を拝借。

中国流伝初期の仏教は、黄老思想や神仙思想を媒介とし、またそれらに依附して中国社会に広まった。つまり、この揺銭樹にみられる変化は、古代中国の宗教・信仰の変化に即したものであったとみてよい。このように、この坐仏揺銭樹はきわめて興味深い研究材料を提供しているのである。
(『貨幣の中国古代史』山田勝芳著/朝日選書)


[ 2010/11/02 01:48 ] 仏像見立て三国志 | TB(0) | CM(0)

劉禅~東大寺・誕生釈迦仏立像 

ここ数回の記事がすっかり仏教づいてしまって…読者の中には
USHISUKEは、熱心な仏教徒か!?
と勘ぐっているかたがいらっしゃるかもしれないのが、ちょっぴり不安です。
が、それでも一向に意に介さず、今回は「仏像見立て三国志」でイカせていただきます!

今更ですが…ぶつぞう、ブツゾウと一口に「仏像」といっても、この世にはホントに多種多様な仏像が存在します。
今回ご紹介する「誕生仏」も、たくさーんある仏像の一ジャンル。
「誕生仏」は、その名の通り生誕後のブッダを具象化した仏像で、一般的に小さめでふくよかで愛らしい造形が特徴的です。
純真無垢…悪気の欠片も見当たらない、性悪説をすっ飛ばすほどのその姿に、思わず心も洗われるようですね。

この苛立たしいほどの純真無垢っぷりに、私は一人の男を想起します。
そう、蜀の後主にして亡国の君主・劉禅です。
彼は「暗愚」と評されることが多いのですが、彼の本質は「暗愚」とはまた違うところにあるんじゃないか?と、私は考えています。

白糸はどうにでも変わるものであり、ただ染められるままになる
(『蜀書』「後主伝」)

と、陳寿が絶妙に表現しているような、純真無垢な器の大きさ。
そして
阿鼻叫喚の長阪で父・劉備においてけぼりにされ、趙雲に救われたときも…
出戻る孫夫人に拉致されようとして、趙雲・張飛に阻止してもらったときも…
右上の写真のように、「やあ!ご苦労さま」ってな具合でのほほんと答えたんじゃないかと想像させる、図抜けた鈍感さ。
父である先主・劉備からは「大器」という稀有な特質のみを受け継ぎ、その「大器」を磨くことも、持て余すこともなく…超高級食材・諸葛亮も腐った食材・黄皓も同等に盛る、ただ「大器」としてだけ生きた男・劉禅。

「暗愚」とは、「道理がわからず、賢さに欠けること」とのこと。
ただ「大器」としてのみ劉禅を捉えたなら、彼を測る尺度として「道理」も「賢さ」もまったく問題にならないのです。

潅仏盆の中に、にこやかに立つ誕生釈迦仏。
劉禅自身も、自らの「大器」の中に盛られた一食材に過ぎなかったんじゃないか…そんな禅問答のような、でも的を射ているような、何だかまとまりませんが、何故だかそんなことを考え、結論に達し、しかも自分で納得してしまったので、これで終わります。


終わると言っていながら…おまけ。
「誕生仏」にはさらに可愛らしい像もありますよ。
長阪で趙雲の懐に抱かれる劉禅の像。
ちょっと窮屈だから、劉禅が右袖からひょっこり顔を出しているようで、なごみます。

--【「誕生釈迦仏立像」の豆知識】
[ 2006/03/01 02:29 ] 仏像見立て三国志 | TB(0) | CM(1)

徐州南部の仏ゾーン 

おはようございます。
最近、無性に
『仏ゾーン』(武井宏之著/ジャンプ・コミックス)
を読み返したくなりました。
私がまだ大佛次郎氏のことを「だいぶつじろう」と読んでいた頃、『週刊少年ジャンプ』で連載されていた漫画。
仏像(の化身?)たちが、殴る蹴るの大乱行を重ねる奇天烈なストーリーの漫画!…だったと記憶しています。
まぁ買うまではないか…と、日頃愛用していた
立ち読み漫画サイト「まんが・コミックの464.jp」
で探してみようと思ったら、なんと、いつの間にかサイトが停止になっていて…ちょっと悶々としています。

ということで、1/16の記事に続き三国志と仏教について。
今回の主人公は、笮融(さくゆう)という人物。
この笮融は、後漢後期の190年代、徐州南部(長江北岸周辺)に中国仏教の一大聖地ともいうべき豪奢な「仏ゾーン」を形成した人物です。
『正史』に書かれた彼にまつわる仏教関連記事は、その詳細さによって、中国での仏教受容期の様子を知るうえでとても重要な資料となっているほど。
※お持ちのかたは、是非『正史 三国志6』(陳寿著 小南一郎訳/ちくま学芸文庫)P261、262をご一読ください。

◇◆笮融の略歴◆◇
はじめ同郷の陶謙の元に身を寄せて、徐州南部の彭城国(現・江蘇省徐州市周辺)及び広陵(現・江蘇省清江市周辺)、下邳の2郡で物資運漕の監督に当たっていました。
しかし、勝手に自立。
豪奢な仏教寺院の建立や派手な仏教行事を多数行い、その浪費ぶりは巨億にのぼるほどでした。
その後、広陵太守や豫章(現・江西省南昌市周辺)太守(朱晧。黄巾賊討伐の英雄・朱儁の息子)を次々殺害し、長江北南岸で略奪をほしいままにしながら転戦。
孫策や劉繇と争いつつ、最後は逃げこんだ山中で付近の住民に殺害されたとさ。南無。

◇◆笮融と仏教◆◇
何だかロクでもない人物に映る笮融ですが、黄巾賊、五斗米道、会稽の許昌、下邳の闕宣(天帝教)etc.後漢後期一世を風靡した「妖賊」の亜種だったと捉えられそうです。
笮融がその他「妖賊」と一線を画すのは、当時は外来の新興宗教という位置付けであっただろう「仏教」を拠り所とした点。
信仰への帰依…というのもあったかもしれませんが、それよりも「特殊な信仰の様式」を自勢力の拡大のために利用したと捉える方が妥当だと思います。
「特殊な信仰の様式」というのは、信仰を彩る華美さ。

大々的に仏教寺院を造営し、銅で人の形を作って、その身体に黄金をぬり、錦やいろどりあざやかなきれで作った着物をきせた。…(潅仏会に)浴仏の儀式が行われるごとに、おびただしい酒食を準備し…さまざまな人々が見物や食事におとずれてその数は1万人近くにも及んで、費用は巨億にのぼった。
(『呉書』「劉繇伝」)

デヴィ夫人叶姉妹もとろけちゃうぐらいの贅沢さ。

戸籍上の人口が激減している後漢後期において、「人集め」は勢力拡大に必須の要件。
曹操が「屯田制」など合理的な政策で解決しようとした一方、笮融は後先構わない強引かつ現世利益的な宗教活動で解決しようとしたのでしょう。

そして、この宗教活動を支えたのは、笮融が活動した地域の土地柄。
笮融が根城とした徐州南部の彭城国及び広陵、下邳の2郡は

もともと豊かな土地で富豪も多く、牧の陶謙は土着の富豪の財力によって軍閥としての力を蓄えている。
(『三国志新聞』三国志新聞編纂委員会編/日本文芸社刊)

というような特色を有していました。
まず富豪・豪族を新興宗教により取り込む(勿論強引な搾取もあったでしょう)ことで多大な貢納物や多額の貢納金を得、それらを宗教的に還元(散在)することで「人集め」を行うというサイクル。
曹操による徐州大虐殺が行われた際、笮融も徐州を去ることになるのですが、彼は男女1万人と馬3千匹を引き連れた…との記載もあるので、笮融の「人集め」は一定の効果はあったようです。

中国と仏教の出会い…その最初期は笮融の事例が表すようにイビツな一面も持っていたようです。
しかし孫策と激しく争った笮融の死後、奇しくも孫呉政権下で江南仏教はスクスクと育っていくことになります。
笮融が蒔いた種は、意外にもその後の中国史に少なからずの影響を与えることになっってしまったようです。

[ 2006/02/12 12:49 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)
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