従来多くの先学は、漢代銭納税制の実態に言及する際に、農民は入手困難な銭の代わりに布帛等を代納していたと推測してきたのだが、本史料(孫呉・走馬楼呉簡「嘉禾吏民田家莂」)によれば、孫呉では本当に銭を納税手段として用いており、それゆえ当時の農民は何としても銭を入手せねばならなかったことになる。これは孫呉が、「銭=国家的決済手段」を軸とする漢代貨幣経済の特質を濃厚に継受していた
背景について全漢昇氏は、①戦乱による経済混乱、②人口激減、③青銅供給量の減少、④仏像建立による青銅消費量増加の四点を挙げる。
後漢から三国時代、三国では蜀にあたる四川地域特有の副葬品。神獣が浮き彫りにされた陶製の台座に、青銅製の枝が取り付けられ、枝の天頂には朱雀が、枝には天上世界を思わせる西王母や一角獣などと共に、漢代に流通していた「五銖銭」が枝全体に所狭しとあしらわれている。
緑釉当座銅揺銭樹/墓に副葬する銭のなる木
後漢(25-220)
1983年8月、四川省広漢市万福獅象村出土
銅
揺銭樹全体の高さ152.0cm、台座:高48.0cm
広漢市文物管理所
『大三国志展』(2008年東京富士美術館)図録掲載
揺銭樹とは、死後の富貴や繁栄を願って墓に埋葬された副葬品で、後漢から三国時代にかけて、現在の四川省、陝西省、雲南省など中国西部で流行した。揺銭樹は本来、中国古来の神仙思想に基づく西王母などの図像を伴うが、そこに仏像も表されるようになった。
この作品は、陶製の台座上に揺銭樹の幹が伸び、その頂部に仏坐像を浅く浮彫する。幹には熊や大きな璧がつき、枝には銭や仙人など神仙世界を示す図像がみられる。
揺銭樹に仏像を表す場合、この作品のように頂部でなく樹幹に配する例が多く、その仏像は口ひげをつけ、通肩に衣をまとったガンダーラ風に作られる。本作品の仏像は、やはり一見ガンダーラ風だが、衣の襟元に放射線状の文様のあることや、腹前の円形の刻線表現が特異である。なお、写真の面は左手が施無畏印(せむいいん)、右手で衣の端をつかむが、裏面は左右が逆になる。
揺銭樹に表わされた仏像は中国に現存する遺品としては最古に属し、仏教伝来の初期に仏像が神仙と同様のものとして受容されたことをうかがわせる遺品として非常に重要である。
仏像付揺銭樹
銅、陶製
現存高93.5、台座+樹幹81
陝西省城固県出土
後漢時代・2-3世紀
城固県文物管理所
『中国国宝展』(2004年東京国立博物館)図録掲載
彭山は四川省成都市の南郊に位置する。この作品も後漢時代の墓から発見された。
中央に坐仏、仏の両脇に胡服を着た1対の人物を表わし、下に璧と思われる円形飾りをはさんで龍虎が向かい合う。仏は通肩に衣をまとい、おそらく右手は施無畏印を結び、左手は衣をつかんでいたのだろう。頭部は、地髪部に縦線、肉髻は横線を刻んで頭髪を表わしている。肉髻に横線を入れるのは、インド、マトゥラーでクシャーン朝(1~3世紀)に作られた初期仏像の巻貝形肉髻を思い起こさせるが、着衣形式や印相、地髪部に毛筋を刻むやり方などは、同じ時代のガンダーラ仏を手本としたとみる方が自然であろう。
現状は後ろ部分を欠損し、また下部にも欠損があると考えられ、当初の形状は明らかでない。彭山崖墓で出土した銅製品は非常に少ないが、この台座の出土した116号墓では、同姓の揺銭樹断片がわずかであるが見つかっている。このように、現存遺例からみた中国最初期の仏像は、仏教寺院ではなく、墓から副葬品の一部として見つかっている。
仏像付揺銭樹台座
陶製
高21.3
1942年、四川省彭山県116号墓出土
後漢時代・2-3世紀
南京博物院
『中国国宝展』(2004年東京国立博物館)図録掲載
中国流伝初期の仏教は、黄老思想や神仙思想を媒介とし、またそれらに依附して中国社会に広まった。つまり、この揺銭樹にみられる変化は、古代中国の宗教・信仰の変化に即したものであったとみてよい。このように、この坐仏揺銭樹はきわめて興味深い研究材料を提供しているのである。
(『貨幣の中国古代史』山田勝芳著/朝日選書)