大家新年好!
今年も『三国志漂流』をどうかよろしくお願いします。
年末年始、みなさんはどのように過ごされましたか?
私にとっては、なんといっても
『PRIDE男祭り2004』。
“絶対王者”
ヴァンダレイ・シウバ…栄光の戦歴に、遂に遂に土がつきましたね。
結果は微妙だったとはいえ、「敗北」自体にとても驚きました。
三国志も、その世界は「男祭り3594」状態。
むさ苦しさいっぱいですが、
ハッスル!ハッスル!で、今年1年も突っ走っていきたいと思います。
さて、2005年1発目の記事は、塩ネタの続き。
第3回で「塩と蜀」について書きましたが、やはり魏呉についても触れておかないと尻切れトンボですからね。
◆◇塩と魏◇◆
後漢末の動乱により、荒廃に荒廃を重ねていた華北地方。
武帝以来の塩の専売制も放置プレー状態になっていました。
そこで登場するのが、曹操配下の衛覬という人物。
衛覬は、司州河東郡にある解池(塩池)近くの安邑県出身。
関羽と同様、解池の畔に生を享けた者の常として、衛覬もその人生で塩との関わりを持つことになります。
200年前後、衛覬は曹操の側近中の側近である荀にひとつの提言をしました。曰く…
そもそも塩は国の大切な宝ですが、動乱以来放置されています。旧来のごとく使者を置いて売買を監督させるのが当然で、その利益をもって…農耕を奨励し、穀物を蓄積して、よって関中を豊かにするがよいと存じます。
(『魏書』「衛覬伝」)
…曹操は即提言を容れ実行し、結果、塩税により国庫は潤いました。
その後、衛覬は政権の中枢に召還され、出世の階段を駆け上がることになります。
時は流れて、263年蜀滅亡。
劉禅を降伏に追い込んだ功労者である魏の艾は、軍事の才能と共に、農政のエキスパートとしての一面を持っていました。
その彼が目に付けたのが、益州で豊富に産出される塩。
成都の艾が、司馬昭に宛てた書状に曰く…
隴右の兵2万人と蜀の兵2万人を留めおき、製塩と鋳鉄の業を盛んにして、軍事と農業の必要にあて…呉に攻め入る場合の準備をいたします。
(『魏書』「艾伝」)
…と、呉侵攻も視野に入れた復興プランを上奏しています。
官渡の戦い前後という曹操の快進撃が始まる時期や、三国鼎立の崩壊時期といったターニングポイントで必ず政治経済の要となる、塩。
魏もまた塩により、拡大する国家の維持に努めていたといえます。
◆◇塩と呉◇◆
呉では蜀と同様「司塩校尉」を設置し、塩の専売を行っていました。
呉の司塩校尉で名前を見つけられるのは、駱秀という人物。
駱秀は、呉において行政・軍事両面で功績の大きかった駱統の息子。
そして駱統の奥さん(=駱秀のお母さん)は、駱統の功績を認めた孫権が自ら間を取り持った従兄・孫輔の娘さんです。
つまり、駱秀は血縁により孫呉皇族への繋がりを有する家柄の出身ということになります。
そんな彼が司塩校尉を務めていたこと自体、司塩校尉という官職の重要性を示しているものと捉えられます。
重要なポストに就いていた駱秀は、しかし悲劇に遭ってしまいます。
「専売制」という制度が示すように、塩はいわば国家公認の金づる。
古来から現代まで、金の周辺では血生臭い闘争が繰り広げられる…それが世の習いです。
司塩校尉を務める駱秀は、呉郡海塩(現浙江省・海塩県より東に位置し、むしろ上海に近い)で海賊の襲撃に遭い殺害されてしまったのです。
塩の監督も、まさに命懸け。
呉に限らず、塩の専売には政府と密売組織との暗闘があっただろうことが見え隠れするエピソードですね。
…ということで、
★「池塩」の魏
★「海塩」の呉
★「岩塩」「井塩」の蜀
と、採取される塩の種類は異なりますが、各政権で普遍的に重要度の高かった塩。
手前勝手に締めさせてもらうと…塩を通して三国志を俯瞰したとき、私にとっての三国志の世界がまた広がったように感じます。
※今回書いた「塩と魏」については、年末に本屋さんで見つけて立ち読みした『中国塩政史の研究』(佐伯富著/法律文化社刊)を参考にしました。
この書籍、なんと18,900円。高っ…。