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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

塩と三国志 ~第5回 三国志の塩仮想体験ツアー~ 

みなさん、こんばんは。
1/5は、敗戦後50周年にあたる記念すべき2005年の仕事初めの日でした。
「がんばるぞ!」と意気込んで出社はしたものの、午前中の年初朝礼で大爆睡&鼻ちょうちん
私の2005年は、もう、終わりました…。

さて今回もねちっこ~く塩について…でも、ホントに最後にするのでお付き合いください。
前回までヨタヨタと「三国志と塩」について書いてきましたが、今回は三国時代の塩を少しでも感じることができるネタを2つご紹介します。
勘違いや的外れな可能性大ですが、恐れずご紹介。

1.蜀の塩を五感で味わってみよう!
塩について書き始めてから、無性に当時の塩を舐めたくなり、年末にNET経由で四川省の井塩を注文。
早速試し舐めしてみました。
舐めてみたのは「榮海井」というお塩です(写真)。
“塩都”の異名を持つ四川省自貢市に湧き出る「岩塩鹹水(かんすい)」を、8時間煮詰めて精製された名塩とのこと。
その製塩所は1988年に重要文化財に指定されたというから、少しでも本格的かつ時を遡った塩を体感できることを期待して、ペロリ。
塩自体は、粒の大きさにバラつきが多いこと以外、一見すると食塩と変わるものではありません。
塩の味はというと…やや甘い、そんな感じでした。
日頃、私の家では徳之島の海塩を使用しているので、それと比べての感想ですが。
ビックリするような違いや古代浪漫を感じさせる何か…はとくになかったけれど、遠い時代にちょっぴり想いを馳せる材料にはなりました。

2.蜀の製塩風景を想像してみよう!
もうひとつNETで見つけた、昔ながらっぽい製塩風景をご紹介。
http://ikokunotabi.web.infoseek.co.jp/yunnnan5/yun10.htm
塩の井戸から鹹水を汲み出しては塩田に撒き、その塩田を支えるように聳え立つ支柱に垂れ下がる塩の結晶を採取する…そんな、見るからに手間も時間もかかって大変そうな製塩風景。
チベット自治区の塩井という雲南省に近い集落で見られるそうなので、古代益州での製塩風景にも通じるものがあるかもしれません。
嗚呼、また中国に行きたくなってウズウズしてきますね。

全5回に亘ってお送りした「三国志と塩」についても、これにて一旦おしまい。
お付き合いいただきありがとうございました!


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[ 2005/01/06 02:15 ] 03:塩と三国志 | TB(0) | CM(0)

塩と三国志 ~第4回 塩と魏呉も~ 

大家新年好!
今年も『三国志漂流』をどうかよろしくお願いします。

年末年始、みなさんはどのように過ごされましたか?
私にとっては、なんといっても『PRIDE男祭り2004』
“絶対王者”ヴァンダレイ・シウバ…栄光の戦歴に、遂に遂に土がつきましたね。
結果は微妙だったとはいえ、「敗北」自体にとても驚きました。
三国志も、その世界は「男祭り3594」状態。
むさ苦しさいっぱいですが、ハッスル!ハッスル!で、今年1年も突っ走っていきたいと思います。

さて、2005年1発目の記事は、塩ネタの続き。
第3回で「塩と蜀」について書きましたが、やはり魏呉についても触れておかないと尻切れトンボですからね。

◆◇塩と魏◇◆
後漢末の動乱により、荒廃に荒廃を重ねていた華北地方。
武帝以来の塩の専売制も放置プレー状態になっていました。
そこで登場するのが、曹操配下の衛覬という人物。
衛覬は、司州河東郡にある解池(塩池)近くの安邑県出身。
関羽と同様、解池の畔に生を享けた者の常として、衛覬もその人生で塩との関わりを持つことになります。
200年前後、衛覬は曹操の側近中の側近である荀にひとつの提言をしました。曰く…

そもそも塩は国の大切な宝ですが、動乱以来放置されています。旧来のごとく使者を置いて売買を監督させるのが当然で、その利益をもって…農耕を奨励し、穀物を蓄積して、よって関中を豊かにするがよいと存じます。
(『魏書』「衛覬伝」)


…曹操は即提言を容れ実行し、結果、塩税により国庫は潤いました。
その後、衛覬は政権の中枢に召還され、出世の階段を駆け上がることになります。

時は流れて、263年蜀滅亡。
劉禅を降伏に追い込んだ功労者である魏の艾は、軍事の才能と共に、農政のエキスパートとしての一面を持っていました。
その彼が目に付けたのが、益州で豊富に産出される塩。
成都の艾が、司馬昭に宛てた書状に曰く…

隴右の兵2万人と蜀の兵2万人を留めおき、製塩と鋳鉄の業を盛んにして、軍事と農業の必要にあて…呉に攻め入る場合の準備をいたします。
(『魏書』「艾伝」)


…と、呉侵攻も視野に入れた復興プランを上奏しています。
官渡の戦い前後という曹操の快進撃が始まる時期や、三国鼎立の崩壊時期といったターニングポイントで必ず政治経済の要となる、塩。
魏もまた塩により、拡大する国家の維持に努めていたといえます。

◆◇塩と呉◇◆
呉では蜀と同様「司塩校尉」を設置し、塩の専売を行っていました。
呉の司塩校尉で名前を見つけられるのは、駱秀という人物。
駱秀は、呉において行政・軍事両面で功績の大きかった駱統の息子。
そして駱統の奥さん(=駱秀のお母さん)は、駱統の功績を認めた孫権が自ら間を取り持った従兄・孫輔の娘さんです。
つまり、駱秀は血縁により孫呉皇族への繋がりを有する家柄の出身ということになります。
そんな彼が司塩校尉を務めていたこと自体、司塩校尉という官職の重要性を示しているものと捉えられます。
重要なポストに就いていた駱秀は、しかし悲劇に遭ってしまいます。
「専売制」という制度が示すように、塩はいわば国家公認の金づる。
古来から現代まで、金の周辺では血生臭い闘争が繰り広げられる…それが世の習いです。
司塩校尉を務める駱秀は、呉郡海塩(現浙江省・海塩県より東に位置し、むしろ上海に近い)で海賊の襲撃に遭い殺害されてしまったのです。
塩の監督も、まさに命懸け。
呉に限らず、塩の専売には政府と密売組織との暗闘があっただろうことが見え隠れするエピソードですね。

…ということで、
★「池塩」の魏
★「海塩」の呉
★「岩塩」「井塩」の蜀
と、採取される塩の種類は異なりますが、各政権で普遍的に重要度の高かった塩。
手前勝手に締めさせてもらうと…塩を通して三国志を俯瞰したとき、私にとっての三国志の世界がまた広がったように感じます。

※今回書いた「塩と魏」については、年末に本屋さんで見つけて立ち読みした『中国塩政史の研究』(佐伯富著/法律文化社刊)を参考にしました。
この書籍、なんと18,900円。高っ…。

[ 2005/01/05 01:57 ] 03:塩と三国志 | TB(0) | CM(0)

塩と三国志 ~第3回 塩と蜀と贖罪~ 

日曜日夜、教育テレビで放送されたスーパー歌舞伎『新・三国志 完結篇』…圧倒されました。
魏将・謳凌なる架空の英雄を主人公に織り成す、歌舞伎と京劇が一体となったような三国志絵巻。
昨夜観るまで興味のなかった自分を呪いましたよ…観に行きゃよかった。

さて、今回は「塩と三国志」の3回目です。
魏呉蜀の三国中、最も塩との関係性に面白味があるのは、蜀だと思います。
なので、今回は塩と蜀について書いていきます。

劉備は益州を平定した後、すぐに「塩府校尉」という官職を設置しました。
塩府校尉は、蜀全域の塩、鉄を一手に監督させ、国庫の増収に寄与させるための官職。
劉焉、劉璋政権では存在しなかった官職の新設は、劉備政権の卓越した行政眼とともに、蜀における塩の重要性を明らかにもしてくれます。
「塩府校尉(=司塩校尉)」として劉備政権首脳陣の期待に大きく応えたのは、王連という人物。
王連は塩によって名を挙げたという、三国志の中でも稀有な経歴の持ち主です。
『蜀書』「王連伝」に曰く…

(王連は)司塩校尉に昇進し、塩・鉄の利益を全面的に管理し、国庫の収入がひじょうにふえ、国の予算に利するところがあった。


…と、彼の業績はとくに蜀創業期における国庫増収面で大絶賛されています。

このような塩を重視する政策は蜀の国是のようになり、劉備没後も諸葛亮により継承されていきます。
諸葛亮の南征及び南中経営にもまた、塩が大きく関係しているようなのです。
『漢書』「地理志第八上」を繰ってみると、雲南一帯は
★越スイ郡・定筰(現四川省・塩源県)
※「塩源」という現地名が特産物としての塩を如実に表していますが、塩源県の近くには塩辺県という地域もあるみたいです、地図を見ると。
★雲南郡・姑復(現雲南省・永勝県)
★建寧郡・連然(現雲南省・安寧県)
といった各地で、塩が豊富に採取されていました。
諸葛亮の南征では、こういった塩を産出する各地を押さえることを、南征後の南中経営では、塩の専売権を握ることを徹底してもいました。
例えば、南中経営のエキスパート・張嶷が、赴任先の越スイ郡で行った数少ない強硬的政策に、原住民からの塩、鉄の専売権奪取があることからも、それは類推できます。

以上のように、蜀は塩によって栄えたという側面をもち、両者は切っても切り離せない関係だったってことが見えてきました。
…と、何故このように私が塩と蜀について、読者のみなさんが半ば引くくらいに熱く書き殴っているかというと…罪滅ぼしなんです。
本BLOG「人物列伝其の3 張嶷」トンチンカンな文章を書いていたのです、私。

南中は、塩や鉄を多く産する希少な土地柄。
海洋に接していない蜀にとって、生活必需品かつ恐らく供給不足に悩まされたであろう塩、そして戦争や農耕に欠かせない鉄の供給を行なうことができました。


「塩と三国志 ~第1回~」でチラッと書いていた「日本人ならではの感覚を三国志に持ち込むと、歴史認識に誤りが生じてしまう好例」とは、まさにこのこと。
海洋に接していようがいまいが、内陸部でも塩は産出されるのです。
なので「供給不足」というよりも、「安定供給とともに国庫増収」の方に重きを置いた政策だった…というのがより適確な解釈だと、今は考えています。
反省

[ 2004/12/28 00:51 ] 03:塩と三国志 | TB(0) | CM(0)

塩と三国志 ~第2回 塩と関羽~ 

今日は以前から観たかった映画『ジャンプ』をDVDレンタルして、観ました。
原田泰造、イイ演技していますね。
♪は~ら~だ~たいぞうです!♪
とか言っている原田泰造とはちょっぴり違いますね。
ああいうナチュラルな感じは、過剰な演技に食傷気味な中、ホッとさせられます。

…ということで、今回は塩と関羽について。
関羽の出身地である司州河東郡解県は、「解池(塩池)」という池で生産される「解塩」によって古今通じて有名な土地です。
「解塩」は、「塩と三国志 ~第1回~」で書いた5種類の塩の中の「池塩」にあたります。
古代王朝の殷も周も、まずこの解池を支配したし、秦の始皇帝の覇業は、この解池を奪取したことで加速したといいます。
また現代でも、解池での塩の生産量は中国全土の74%を占めるといいます。
中国において、古今東西、こんなにも強烈な影響力を持つ解池の塩。
それだけに解池近辺で生活する者は、その人生で多かれ少なかれ必ず解塩と関係を持つことになるともいいます。

長い前置きはここまでにして、関羽のお話。
『蜀書』「関羽伝」のしょっぱなにあるように

(関羽は)本籍から涿郡に出奔


して、後に劉備や張飛と出会うことになります。
が、肝心の「出奔」しなくてはいけない程の何が起こったのかは、推測するしかありません。
冒頭に触れた『ジャンプ』も失踪者のお話だったんですが、「出奔」するからにはそれ相応の原因が関羽にもあったに違いないのです。
ここで、関羽の出奔に関して、彼の出身地に近い解池の塩が絡んだ伝説が生まれました。
伝説の内容は、以下の通り。

…関羽が19~27歳の頃、解県に悪徳な塩の密売商人・呂熊という人物がおりました。
呂熊は札付きのスケベさんで、数多くの女性を手籠めにしていたのですが、遂に彼に逆らい自殺する女性が出てしまいます。
ここで立ち上がったのが、若き日の関羽その人。
暗夜、彼は刀を片手に呂熊の豪邸に押し入り、一家全員皆殺しにします。
血脂でボロボロの刀を下げ、全身血まみれになって帰宅した関羽。
そんな我が子を見て、関羽の父母は「義による行動だ」と認めます。
ただ、すぐにでも差し向けられるだろう追っ手から逃げねばならず、足手纏いになってはと、父母は井戸に身を投じて死んでしまいます。
関羽は自宅の壁を押し倒して井戸を封じ、出奔…2度と故郷に戻ることはありませんでした、とさ

以上の伝説は、以前にも出典として紹介した『関羽伝』(今泉恂之介著/新潮選書)からの引用です。
他にも塩商人の用心棒をしていた関羽が人を殺し、出奔した…などの伝説もあるようですが、いずれにも解池の塩が関わりを持つところが、ならではな感じです。

出奔後、関羽は常在戦場約3、40年。
故郷・解県より遠く南方、荊州南郡臨沮が彼の終焉の地となります。
斬首後、関羽の首は孫権から曹操に送られ、曹操により丁重に葬られます。
関羽の塩漬けの首…
私がモノ書きだったら、首を漬けたその塩は、関羽の故郷・解池(塩池)産の塩ってことにしますね。
若かりし頃故郷を出奔して以来、長い長い人生の旅の果て…故郷の匂いのする「解塩」に包まれて安らかな眠りにつく関羽…そして後世、故郷・解県の塩商人たちによって「関帝」として神格化され、民衆に浸透していく…
そんな三文小説家の駄作のようなクライマックスに。

[ 2004/12/26 08:30 ] 03:塩と三国志 | TB(0) | CM(1)

塩と三国志 ~第1回 塩ととんかつと私~ 

メリクリ!
みなさんは、どんなクリスマスをお過ごしですか?
私はレンタルしてきたサンボマスターを聴きながら、熱い血潮を胸に、冷めたチキンを胃に、「新しき三国志の道と光」を模索しています。
…ということで、X'masとはま~ったく無関係な「塩」について、今日から3回ほど書いてみようと思います。

なぜ「塩」か?
というと、やっぱり三国志と密接な繋がりがあるからなんですが…
とりあえず今回は「塩」全般について、次回は「塩と関羽」について、次々回は「塩と蜀」について書くことにします。

…なんですが、みなさんは知っていましたか?
塩というのは、海水からせっせと煮出して醸成するものがメジャー・オブ・メジャーだと思っていたら、違うんですね。
現在、全世界で使われる塩の2/3は「岩塩」だそうですよ。
ビックリ。
というか、塩には大きく5種類もあって

1.海塩(海から採れる塩)
2.池塩(塩池から採れる塩)
3.井塩(地下の塩水から採れる塩)
4.土塩(地表に含まれる塩分を溶かして採れる塩)
5.岩塩(地下や一部地表に隆起した結晶化したものから採れる塩)


という風に分類されるらしく、海水から採れる塩なんて塩全体のほんの一部だったんですね。
※そういえば、この前行ったとんかつ屋に「パハール岩塩」なる岩塩が置いてありました。この岩塩をつけてとんかつを喰べてみると、ほんのり甘く美味しかったですよ。ピンク色の塩なので、目立ちます…が、別に怪しい販売員ではありませんよ、私は。

なるほど!これで、ひとり勝手に納得できました。
塩がないと人間は生きられない…というのはよく耳にしていたんですが、そしたら例えば海なんか遥か彼方の四川省で、人がよく生きていられるなぁ…まして交通手段が稚拙だった三国時代当時によく生きていられたなぁ…と、不思議だったんです。
ちなみに、日本の戦国時代、「上杉謙信が武田信玄に塩を贈った」という逸話がありますが、あれは日本ならではの話なんですね。
なぜなら、日本は池塩や岩塩が皆無な土地柄で、海水から塩を採るしか方法がないから。
つまり、日本の内陸部で生活するには、沿海部から塩を輸送する以外に塩を摂取できる道はない…でも、中国では内陸部でも採れる塩を普通に摂取できるということです。
日本人ならではの感覚を三国志に持ち込むと、歴史認識に誤りが生じてしまう好例ですね。
アブナイ、アブナイ。

中国では、塩に関して、前漢・武帝期(前119年)以降徹底した専売制が敷かれていました。
生活に不可欠かつ代替品の存在しない塩が国家にとって有効な収益源になるのは勿論、一部地域だけでなく沿海部、内陸部と全土から搾取できるというのも、専売対象となった理由なんでしょう。
※日本でも、1997年に自由化されるまで塩は国家の専売品だったんですね。これも知りませんでした…。

この「内陸部でも採れる、専売制下の塩」というのが、次回以降もKEYWORDです。
関羽は塩の一大生産地・解池(塩池)周辺の出身だったことが、その後の人生に影響しているようで…
諸葛亮の南征と南中経営に、雲南地方で大量に生産される塩が大きく関わっていたようで…
その辺を突いていってみたいです。
といことで、次回また。

[ 2004/12/25 12:19 ] 03:塩と三国志 | TB(0) | CM(1)
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