三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

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【独占!】王平は南蛮非漢民族出身か!?~おまけ編~ 

みなさん、こんにちは。
「王平シリーズ」ホントのホントに最終回です。
既に曹徳さんからコメントをいただいている内容と同じことなんですが
王平はほぼ文盲
の武将でした。

王平は戦陣の中で成長したため、字が書けず、知っているのは十字足らずであった
(『蜀書』「王平伝」)


王平が文盲であったこと…陳寿は「戦陣の中で成長したため」としていますが、「王平=非漢民族出身説」をゴリ押しすると、漢字を学ぶ漢民族とは異なる民族として生を受けたことも文盲であった理由と捉えられるんじゃないか?と思います。

そこで、みなさんに教えてもらいたいことがあります!
王平が知っていた「十字足らず」の文字って、何だったと思いますか?
王・平・子・均=王平のなまえ
訓=王平の子のなまえ
の5文字は固いかなぁ…と思うのですが。
夜も9時間グッスリ眠れるくらい悩んでいるので、ウソでもいいから、教えてください!

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【独占!】王平は南蛮非漢民族出身か!?~後編~ 

どうもグーテンターク!ボンジュール!ボンジョルノ!
突然ですが、Bunkamura ザ・ミュージアム@東京都で
「スイス・スピリッツ」
という展覧会が催されています。
なんで三国志に無関係な展覧会を紹介するかというと、私にとって最も胸キュンな西洋人画家であるジョバンニ・セガンティーニの絵画が出展されるから。
春らしくみずみずしい光に溢れる絵画に心洗われること請け合いです。お時間があれば是非。

と、前置きはこれくらいにして。
少し間が空きましたが、「王平シリーズ」後編です。
前2回では、王平が非漢民族・板楯蛮出身であることを、あることないこと述べてきました。
最終回の今回は、王平の名が史書に燦然と輝くことになる「街亭の戦い」における奮戦ぶりを、彼が板楯蛮出身であることを切り口に読み解いてみようと思います。
三国志に由来する数ある故事の中でも1、2を争うチョー有名故事「泣いて馬謖を斬る」原因となったのが、諸葛亮そして蜀にとっては痛恨の一戦である「街亭の戦い」。
将来を嘱望された蜀将・馬謖は諸葛亮の命令(戦術)に従わず、結果魏に手痛い敗北を喫することになるのですが、敗戦の最中ひとり気を吐き孤軍奮闘したのが馬謖の先鋒の将・王平率いる一軍でした。

王平指揮下の千人だけは、陣太鼓を打ち鳴らして踏みこたえたので、魏の大将張郃は伏兵がいるのではないかと怪しんで、近づこうとはしなかった。
(『蜀書』「王平伝」)


王平の奮戦ぶりがしっかり伝わってくる文章ですが、同時に単純な疑問も湧いてきます。
なぜ、わずか千人ばかりの王平率いる軍団のみが街亭で元気に戦い続けられたのか?
なぜ、張郃は王平の「伏兵」を恐れたのか??
それらの重箱の隅をつつくような疑問も、王平が板楯蛮という非漢民族出身だとしたら…あら不思議、スッキリ解けるのです。

◇◆張郃と板楯蛮の出会い◆◇
街亭の戦い(228年)から遡ること約10年、曹操の漢中侵攻に始まり、定軍山における夏侯淵の戦死、そして劉備の漢中における支配権確立に至るいわゆる「漢中争奪戦(215~219年)」の頃。
一貫して曹操軍の第一線で戦い続けた武将が、張郃その人でした。
張郃は雍、涼2州の総司令官(征西将軍)だった夏侯淵亡き後、臨時的に総司令官を代行もした曹操軍の重鎮のひとりですが、漢中方面ではとくに非漢民族の討伐・平定にも功のあった武将です。

張郃は…宕渠まで軍を進めた
(『魏書』「張郃伝」)


とあるように、「漢中争奪戦」の際に「宕渠(地名。前々回参照)」まで軍を進めたことのある張郃は、宕渠周辺に住まう非漢民族・板楯蛮のことをほぼ間違いなく認識していたでしょう。
「神兵」として漢民族からも畏敬されていた板楯蛮の強さを知る張郃だからこそ、街亭において板楯蛮出身の王平軍に軽々しく手出しをしなかったと考えられます。

◇◆街亭と板楯蛮◆◇
「神兵」板楯蛮のことを知る魏将・張郃は、おそらく板楯蛮の兵士たちを率いていただろう板楯蛮出身の蜀将・王平に少なからずの警戒心を抱いていたことは想像に難くありません。
が、とはいってもこのことだけをもって街亭において張郃が王平の一軍に近づこうとしなかった理由…とするのは、ちょっと弱いですね。

街亭において王平の一軍が孤軍奮闘できた理由、張郃が伏兵を恐れた理由…それは、この街亭という土地柄に隠されていました。
街亭から離れること直線距離にしてわずか約20kmという近接地・略陽には、当時板楯蛮がこぞって移住し、生活を営んでいたのです。
史書には記されています。

魏武定漢中…杜濩、朴胡…等、移於略陽。
(『華陽国志』「李特雄期寿勢志」)


曹操は漢中を平定し、杜濩、朴胡らを略陽へ移した、と。
杜濩、朴胡らは、前々回の記事にも登場した板楯蛮の代表的な統率者。
つまり、曹操の漢中侵攻に対し服従でもって応えた非漢民族・板楯蛮の多くは、故地である益州の宕渠から涼州の略陽という土地に移住させられていたのです。
王平ら蜀軍の板楯蛮にとって、街亭への進軍は同族が住まう土地への凱旋という意味合いがあったのかもしれません。
蜀の先鋒・馬謖軍のさらに先鋒を王平が担った理由も、ここにあったように思えます。

しかし、馬謖の失策で蜀軍は街亭において敗北。
馬謖を大破した張郃は、勢いに乗って王平の一軍をも一飲みにせんと迫ってきます。
張郃は

変化の法則をわきまえ、よく陣営を処置し、戦争の状況・地形を考慮し、計略どおりにいかないことはなかった。
(『魏書』「張郃伝」)


と、とくに褒め称えられる名将。
王平が拠るのは木々が鬱蒼と茂る山間の隘路という攻めにくい地形、そして王平と同族である板楯蛮のゲリラに晒される危険性を孕む街亭における特殊な戦況。
※略陽や街亭の地理的状況は、『三国志 正史と小説の狭間』(満田剛著/白帝社刊)に詳しいです。
王平の軍営内から不気味に轟く陣太鼓は、いつ出没するかもわからない「神兵」板楯蛮ゲリラとの連携の合図か?…歴戦の名将・張郃だからこそ、勝ちに奢ることなく慎重に戦場を取り巻く様々な要因(前述)を分析した結果、王平の一軍に手出しをしなかったのでしょう。

…いかがでしたか?
前中後編の3回に亘って書いてきた「王平非漢民族出身説」については一旦終了です。ご意見などあれば、是非お聞かせください。
次回、「おまけ編」で締めくくります。


【独占!】王平は南蛮非漢民族出身か!?~中編~ 

蜀の王平が、実は非漢民族出身だったんじゃないか!?
スキャンダラスなこのことについて2回に分けて書いていこうと思っていたんですが、モンモンが止められないので、容赦なく3回に増やして書かせてもらいます。
中編にあたる今回は、王平の出身民族と思われる「板楯蛮」を掘り下げることで、よりリアルに非漢民族である王平を妄想してみることにレッツ!チャレンジ。

◇◆板楯蛮ってどんな民族?◆◇
改めて「板楯蛮」は、「ばんじゅんばん」と読みます。
この板楯蛮って、どんな民族だったんでしょうか?
推論と妄想を足して2で割ると…なんと、現代まで存続している雲南地方の一少数民族に行き当たるのです。
板楯蛮、それは彝族(イ族、ロロ族)のこと!…っぽいです。
板楯蛮と彝族、それぞれの点を結ぶヒントは

板楯七姓の盧(羅)氏と現在のロロ族(盧盧・羅羅)との関連を検討する必要があり、今後の課題としたい。
(『史観』第116冊「五斗米道政権と板楯蛮」澤章敏著/早稲田大学史学会刊)


という文章。
今後の課題…そんな悠長に待ってられないので、勝手に推論します。

上述の「板楯七姓」って具体的には

その渠帥の羅・朴・督・鄂・度・夕・龔の七姓
(『後漢書』「南蛮伝板楯蛮条」)


という有力な統率者群を指します。
このうちの「羅氏(一説に盧氏)」を、ロロ族と結びつけると、どうよ?ってことなんですが…ここで述べられているロロ族こそが、現代中国においては彝族と称される民族と同義なのです。
http://wee.kir.jp/vietnam/vet_lolo.html

ただダジャレのような語呂合わせだけだとグーで殴られそうなので、さらに板楯蛮と彝族とを結ぶ2つの架け橋を見つけました。

ひとつ目の架け橋…それは、いずれも「武」をもって民族的な特徴とする点。
「板楯」とは「楯(たて)」に類する武具のことで、勇猛さをもって民族としての呼称としていたのでは?と捉えられます。
事実、179年に板楯蛮が叛乱を起こした際、時の皇帝・霊帝に対して、配下の者が板楯蛮について語るには

その性格は勇猛で、兵戦を得意としました。昔、永初年間に羌が漢州に入り、郡県は破壊されましたが、板楯がこれを救う事ができ、羌は戦死してほとんど全滅し、故に神兵と呼びました。
(『後漢書』「南蛮伝板楯蛮条」)


とのこと。
板楯蛮は、漢民族から「神兵」と称されるほど武勇の誉れ高い民族だったのです。
一方現代の彝族もまた

彝族は武勇を尊び、“立派な男は女性を殴らない”ということわざもあります。
NGO-MOONCITY-のHPより)


という武勇を尊ぶ民族だそうで…「武」によって点と点がひとつ結びつきました。

そして2つ目の架け橋は、シャーマニズム的傾向が著しく見られる民族である点。

巴西宕渠賨民…俗好鬼巫。
(『華陽国志』「李特雄期寿勢志」)


賨民=板楯蛮は鬼巫を好んだ、つまりシャーマン的存在を中枢に据えた民族だったことが窺いしれます。
一方やはり現代の彝族もまた

日本の巫女と同じような役割を持つ“スニ”と呼ばれる人達もいます。また、唯一彝語の読み書きができ、宗教的技能者でもある“ピモ”と呼ばれる人達もいます。
NGO-MOONCITY-のHPより)


というように、現代においてもなおシャーマンが重きをなしている民族のようです。

以上、民族名をひとつの手がかかりとして、民族的な特徴2点をそれぞれ線で結ぶことで、「板楯蛮=彝族説」を肉付けてみました。
王平が現代でいう彝族であるなら、その容姿はおよそ写真のようになります。
蜀の武将たちの中でも一際目立つ剽悍な武将像…一般的には地味さを否めない王平像を覆し、エキゾチックさがムンムン香りたってくるようじゃないですか?

さて次回後編では、「街亭の戦い」における王平の孤軍奮闘ぶりなどを、彼が板楯蛮出身であることを切り口に妄想していこうと企んでいます。


【独占!】王平は南蛮非漢民族出身か!?~前編~ 

いやー、無知って素晴らしいですね!ムチムチ。
新しいことを知ったときの興奮たるや、たまらんものがあります…無知に感謝。

発端は、『曹操-魏の武帝』(石井仁著/新人物往来社刊)。
ちょっと前に購入していたんですが、しばらく放置プレー状態だった書籍です。
日曜日の朝、起きぬけの気だるさの中、何気なくペラペラめくっていると

蜀漢の将軍王平(字は子均、巴西郡の人、?~248)…は板楯蛮夷の出身とみられる。


なる文章が、ふと目に飛び込んできました。
「…ぅぇえ!王平って、あの街亭で麓を死守した王平?漢民族じゃなかったの??」
驚天動地。
そりゃもう、気だるさも吹っ飛びましたよ。
蜀の生命線である漢中の太守、武官としては最上位クラスの2品(九品官人法より)に相当する鎮北将軍にまで昇進した武将なんだから、当然のように漢民族だと思っていました。
というか、王平が非漢民族であることなど、頭の片隅にもありませんでした。

日曜日の予定変更。
今日1日はすべて、王平が南蛮非漢民族(板楯蛮)出身である根拠探しに捧げることに決定。

天下の東京都立中央図書館へ急行し、関連資料をひっくり返し…結果、「王平非漢民族説」を裏付ける資料をモリモリ見つけ、妄想もモンモンと沸いてきたので2回に分けて整理しつつ書き記していこうと思います。
…ひょっとしたらこの話って有名な話なのかもしれないので、既知のかたはお見捨てください。

◇◆王平が非漢民族出身とする根拠◆◇
点と点を結んで線とする…出発点は

王平は…巴西郡宕渠県の人である。もと母方の家の何氏に養われたが、後に王姓に戻った。杜濩・朴胡について洛陽に行き…
(『蜀書』「王平伝」)


という記述からです。

ここで注目すべきは「巴西郡宕渠県」という地名と、「杜濩・朴胡」という人名の2点。

賨人…自巴西之宕渠、移入漢中。
(『華陽国志』「李特雄期寿勢志」)


この記述は、張魯の五斗米道政権下に入った「賨人(=板楯蛮)」が大挙して漢中へ移住する様子を表しています。
※「賨人」が「板楯蛮」である論証は
『史観』第116冊「五斗米道政権と板楯蛮」(澤章敏著/早稲田大学史学会刊)
に詳しいです。
王平の出身地である「巴西郡宕渠県(現・四川省渠県近く)」は、「南蛮」と称される異民族の一民族・板楯蛮が多く生活する地域だったのです。
そしてもうひとつ「杜濩・朴胡」という2名の人物は、その板楯蛮の有力な統率者だったのです。

巴の七豪族のうち蛮王の朴胡と賨邑侯の杜濩は巴の蛮人と賨の住民をこぞって帰順した。
(『魏書』「武帝紀」)


2名が「蛮王」であり「賨」を冠する侯(後漢朝が異民族の首長などに与えた爵号)であったことが、そのことを如実に示しています。
王平は、板楯蛮の有力な統率者である杜濩と朴胡「について」洛陽へ行きました。
ついて行った(原典だと「隨」)のです。
非漢民族の統率者についていくのは、普通に考えれば非漢民族の被統率者たちですよね。
ということは…王平が(純粋にであるかどうかはわからないまでも)板楯蛮の出身であることは、論理的には普通の帰結なわけです。

今回は一旦ここでおしまいにして、妄想含め続きは後編で。

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