★腸チフス★
病原体:チフス菌
感染経路:水、食物による経口感染
流行地:衛生不良地域ならどこでも
※流行地地図を併せて参照。
症状:高熱、比較的徐脈、意識・神経障害、腸潰瘍など
致死率:10~30%
※下から8行目あたりに根拠数値アリ。
★発疹チフス★
病原体:発疹チフスリチッケア
感染経路:シラミによる咬感染など
流行地:一般には寒冷山岳地帯が多い
症状:高熱、頻脈、意識・神経障害、全身発疹など
致死率:10~40%
おそらく住血吸虫病の一種でしょう。秋に感染して1か月の潜伏期間があり、体内で卵が孵化して発病すると、高熱が出て、死に至ることも少なくない。南方人は免疫を持っているが、北の人たちが長江中流に長期間滞在すると、発病する可能性が高い
高熱をともなう急性疾患。腸チフスなど。(infoseek『大辞林(国語辞典)』)
この病に罹ったものは、粗末な毛の衣を着て豆を食べている子供や、貧しい家の男女ばかりで、食事も十分で、貂を重ねたベットで眠っているような富家の者で、疫病によって死に至る者はたいへん少ない。(『説疫氣』曹植作の詩より )
※陳琳らの命を奪った217年の疫病に対して、曹植が詠った詩。
◇◆199年◆◇
★流行病の記録としては、建安4年(199)3月に「大疫」とある。(『漢方』石原明著/中公新書)
◇◆196~206年◆◇
★建安(196~220年)と年をしるすようになってからまだ10年もたたないのに、そのうち死亡した者が3分の2あり、傷寒によるものが10分の7を占めた。(『傷寒雑病論』張機著)
※張機(張仲景)はこの時期、太守として長沙に赴任していました。
◇◆208年◆◇
★建安13年(208)、孫権が軍勢をひきいて合肥を包囲した。そのとき、(魏の)大軍は荊州を征討していたが、疫病の流行にあった。将軍の張喜に単身千騎をひきいさせ、汝南を通過の際その兵を配下に収め、それによって包囲を解かせることにしたが、やはりかなりの兵が疫病にかかった。(『魏書』「蒋済伝」)
★公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが…疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。(『魏書』「武帝紀」)
◇◆217年◆◇
★昔年(217)疫病が流行し…徐幹・陳琳・応瑒・劉も同時に皆なくなった(『魏書』「王粲伝」)
★建安22年(217)、(司馬朗は)夏侯惇・臧覇らと呉を征討した。居巣まで来ると、兵士たちに疫病が大流行した。司馬朗は自身で巡視して医薬を与えたが、病気にかかってなくなった。(『魏書』「司馬朗伝」)
◇◆219年◆◇
★この歳(219)、流行病がはやり、荊州の住民の租税をすべて免除した。(『呉書』「呉主伝」)
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