三国時代に限ることじゃないですが…何かの事実・事件、その事実・事件の背景などを考察するとき、中国の歴史では「血縁関係」が重要なファクターとなることが多いように思います。
そこで、みなさんに少しでも「Oops!」と思ってもらえるような意外な血縁関係を
クローズアップして、樹形図で表現してみたりするシリーズを用意しました。
第1回目は、「劉表の荊州政権」と「諸葛亮」の意外な関係。
「三顧の礼」以前の諸葛亮のイメージは…桃源郷を彷彿とさせるような隆中に住まい…晴耕雨読の生活ですっかり浮世を離れたような隠遁者…そんな感じでしょうか?
しかし、このイメージは三国時代以後に流行した道教的なオブラートに包まれたちょっと脚色された諸葛亮のイメージに思えます。
事実、「三顧の礼」以前の諸葛亮は、姻戚関係によって当時の荊州政権の中心人物だった劉表や蔡瑁らと
コネクションをもっていたのです(劉表との関係は、現代日本の『民法』に照らすと、正確には「親族」といえないみたいです。ただし、蔡瑁とは3親等の姻族ということで立派な「親族」です)。
諸葛亮は、その青年期を俗世間と距離を置いて過ごしていたわけではなく、逆に中原の混乱も影響して人材の流入が激しかった荊州において、人脈の形成を通して密かに
爪を研いで世に出る機会を伺う…そんな青年期を過ごしていたのではないでしょうか?
ただ、どこかの政治家みたく社交的に手当たり次第な人脈形成を行うのではなく、諸葛亮自身の価値観による交流の取捨選択があったので、前述のような「脚色されたイメージ」が作られる遠因になったのかもしれません。
「三顧の礼」以後、老練の域に達しつつある劉備が若年の諸葛亮を大抜擢したことは周知の通りです。
この大抜擢は、諸葛亮自身の才能もさることながら、長い流浪生活に終止符を打つため強固な地盤を築きたい劉備にとって、諸葛亮が培った人脈を欲したためとも考えられます。
政権内においては劉表に近い人脈を、また在野においては名士・黄承彦に近い人脈を培っていた諸葛亮の戦略が功を奏した何よりの証拠のように考えるのです。
AUTHOR: 風街ろまん
DATE: 05/09/2004 06:38:19
はじめまして。
諸葛亮に関してですが、自らを管仲や楽毅に准えていたくらいですから、荊州時代に人脈を築いていたとしても納得できます。基本的に「竹林の七賢」のようになることは諸葛亮自身も考えていなかったのですから、わざわざ仕官まではしないにしても将来の自分を高く売るための「仕掛け」は当然していたものと思われます。
初めて知ったのですが、面白いブログですね。頑張ってください。チャオ!