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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

関羽瀬 

こんにちは。
最近仕事以外の情報のINPUTに飢えているUSHISUKEです。

前回「呉の四姓」を取り上げた際に、改めて『正史』の関連箇所を斜め読みしていたときのこと。
陸抗の伝の中にある、以下の記述にハッとしました。

西陵の関羽瀬から白帝城までの地域の軍事の総指揮にあたった。
(『呉書』「陸遜伝」)

「…関羽(かんう)…瀬(らい)??」
文意からそれが地名であることはわかるのですが、あの劉備3兄弟の「関羽」という名前がくっついているのは偶然?
恥ずかしながら、これまでま~ったく気付いていなかった箇所だったので、ちょっと調べてみました。
するとその地名の由来が、『呉書』「甘寧伝」にありました。
「甘寧伝」に曰く…
ときは、215年。
呉蜀が、「荊州帰属問題」に大揺れに揺れていた頃。
荊州南部の益陽(現湖南省益陽市)で、魯粛の率いる呉軍と関羽率いる蜀軍とが、資水という河を挟んで一触即発の対立状態にありました。
ある日、関羽が夜のうちに浅瀬から渡河するという情報が、呉軍に伝わります。
急報を受けて、たちまち主だった将を集め対応策を議す魯粛。
その場で甘寧が
「オレが行って阻止してきちゃるけん!」
と、渡河阻止を買って出ます。
浅瀬の対岸に向け、夜をついて軍を進める甘寧。
関羽は甘寧が急行しつつあることを聞き、結局軍を留めて渡河せずに終わりました。
このことにちなんで、陳寿が『正史』を記している時代もなお(もしくは、その時代に既に)「関羽瀬」という地名が伝わっていた…というものです。

ひとつの浅瀬に対して割かれた文章量。
本来簡潔極まりない文章が特徴のはずの陳寿著『正史』で見つけた、小憎らしい演出と、私は捉えます。
蜀出身の陳寿の想いいれがココにも見え隠れしているようで…何だか気持ちがホンワカしました。
そして、何よりも様々な妄想を掻き立てる「関羽瀬」という地名。
また旅行の虫がウズウズとしてきます…今も残っているんでしょうか?関羽瀬。

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[ 2005/06/05 10:20 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

三国志はじめて物語 ~東洋法学の父・衛覬~ 

今回は、「塩と三国志」の第4回でチラ出した衛覬について。
私は三国志に限らず調べものをする際、まずNETでの気楽な検索から始めます。
衛覬についてもまずいつも通り鼻をほじりながらGoogle検索をしてみると、電子図書館にある
『法窓夜話』(穂積陳重著)
という書籍に突き当たりました。
私は学生時代に法律をちょっぴり齧っていたりもしたので、「穂積陳重」の名が「民法の祖」という尊称とともに脳ミソの片隅からひょっこり顔を出しました。
気になったのでちょっと読んでみると

律学博士なるものは、この衛覬の建議によって始めて置かれたものであるという。
とあります。
あらま、偶然。
三国時代の塩政を調べていて引っかかった衛覬が、法学面でも釣れちゃいました。
『魏書』「衛覬伝」や『晋書』「刑法志」によると、229年、魏帝・曹叡に対する衛覬の上奏により「律博士(=法学博士)」が新設されました。
法学を体系的に研究しかつ教授する公的な官職としては、中国初…らしいです。
当時の法律は
26,272条
7,730,000余言
に及ぶ膨大な文言で構成されていた模様。
こうなるともはや一官吏、獄吏が理解できるものではありませんでした。
衛覬は律博士の新設を機に、末端の役人まで法律を教授し合い、理解が徹底されることを図ったのです。
律博士新設はまた、司空・陳羣らが中心となって行った「魏法」の制定にも影響したようです。
「魏法」は漢代の膨大な法律を簡約にし、かつ体系化、整備したもので、衛覬の律博士新設と発想を同じくするものでした。
さらに、律博士新設の影響は、中国に留まらず日本にも及ぼします。
衛覬の上奏から約500年後の728年、日本でも「律学博士」が導入され(のちに「明法博士」に改称)、以後脈々と継承されていくことになります。

こう見てくると、穂積陳重が「(近代日本)民法の祖」なら、衛覬は「東洋法学の父」とも称すことができるほど大きな影響力を持つ人物に思えてきませんか?
拡大解釈ですけどね。

[ 2005/01/07 07:29 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

淩統の「淩」 

先日、まるたま。さんに教えていただいた「CGI」を猛勉強中のUSHISUKEです。
「perl」だとか「パーミッション」だとか、わかんない未知のコトバばかりで…コンピュータと上手にお話できません。
未知との遭遇。
コミュニケーション障害中。

それは、それとして。
最近『中国姓氏事典』(日中民族科学研究所編/国書刊行会)という書籍を古本屋で購入しました。
ゴロゴロしながら、パラパラ目を通しているのですが、これが結構面白いのです。
ネタ満載なので、今後小出しにしていきますが、今日はそこからひとつ。

呉の淩操、淩統父子。
淩操は孫策麾下として、淩統は孫権麾下として名を馳せた猛将。
彼らが戴く「淩」姓も歴史書に燦然と輝いています
…が、この「淩」姓、実は間違いらしいのです。
原姓は「凌」(にすい)。
彼らが書き間違ったのか?
それとも彼らの祖先が書き間違ったのか??
いつの間にやら書き間違いの「淩」(さんずい)が正式な姓になってしまったという…そこはかとない面白さと哀しさ。

哀戦士・淩操、淩統。
歴史書に名を残すほどの人物にもなると、いろんな難癖がつけられるんだなぁ…と。

[ 2004/12/19 12:22 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(8)

関興の生年 

前回記事「関興のお母さん」の続きです。
「虚実の探求は別次元の問題」と書きながら、ちょっと確認しておきたいことがあるのです。
『関羽伝』と『正史』他の資料とでは、どうしても関興の生年に食い違いが生じてしまいます。

まず『関羽伝』の記述を、ザックリと年表形式で表すと…

160年:関羽誕生
177年:胡氏と結婚(関羽17歳)
178年:長子・関平誕生(関羽18歳)
184年:

この辺で関羽は故郷・司州河東郡解県を出奔。
関興はそのまま村に残され、村人に育てられた…そうなので、関羽出奔前に関興が出生しているということになります。

188年:劉備、張飛と出会う(関羽28歳)
219年:関羽死亡(関羽59歳)

ということで、『関羽伝』による関興の生年は、179~187年頃です。

…と、ここまでは『関羽伝』を読みほぐしてきたのですが、一方研究書や『正史』から、関興の生年がどのように類推できるかというと…
★関興は、224、225年に蜀の侍中に任じられています(『三國政権の構造と「名士」』渡邉義浩著/汲古書院刊)。
★また「20歳で侍中・中監軍になった」という記述が『正史』にあります。
ここから、関興は224、225年頃に20歳であったことがわかります。
ということは、引き算をすれば関興の生年は、204、205年頃ということになります。

…ん??やはり…
『関羽伝』のネタ元である郷土史家の話と、『正史』他を元にした話とでは、関興の生年に食い違いがありますね。
関興の生年は、『関羽伝』だと179~187年頃、『正史』他だと204、205年頃。
下手したら1世代も違います…。
ただし、「そしたらどっちが正しいんだ!ん~どっち!?」と言われてもこれ以上掘り下げる情報もないですし…前回の記事「関興のお母さん」については、このような食い違いも踏まえて読んでくださいね、というところで締めさせてもらいます。

[ 2004/12/11 11:54 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

関興のお母さん 

1か月半くらい前の記事「『三国志』であなたの贔屓は魏?呉?蜀?」で、バナナ牛乳さんからコメントをいただいていた…

一方で、関興はどんな方との間に生まれたのかも気になったりして…。

について少しわかったことがあるので、今回はそれを。
ネタ元は、たまたま神保町で見つけた
『関羽伝』(今泉恂之介著/新潮選書)
という書籍です。
(神保町といえば、「ボンディ」というカレー屋さんが美味しいです。先月はエビカレーを3回喰べました)
この書籍、『正史』など信頼性の高い資料を元にしたものではなく、関羽の故郷に住む郷土史家へのインタビューなどがメインだったりするので、内容的に怪しい部分も多いのですが…とりあえず。

『関羽伝』の記述によると…
関興は、関羽が19~27歳の間に産まれた次男坊です。
関興のお母さんは、胡氏という女性。
関羽は、17歳のときに胡氏と結婚し、翌年には長男・関平を儲けたようです。
関平は『演義』のように養子ではなく、関羽の実子ということですね。
それにしても、17歳の結婚ということは、現代だと高校生同士の結婚。
「3年B組金八先生」(シリーズ第1作)で、杉田かおるが高校生ながら妊娠、出産した…そんなシーンを私は思い出しますが、全く無関係、脱線スミマセン。

さて関平に続き、179~187年の間に、次男坊・関興も誕生。
関羽と胡氏は、関平、関興という2子に恵まれ、くは幸せな生活を送ります。
しかし、関羽家の幸せな日々は、長く続きませんでした。
関羽は、劉備、張飛と出会う188年までに、殺人など何らかの罪を犯し故郷を追われてしまうのです。
出奔した関羽が幽州涿郡に流れ着き、そこで劉備、張飛と出会い、後漢末の乱世に身を投じていくのは周知の通り。

関羽が出奔した後に残された胡氏と関平は、胡氏の実家に身を寄せて暮らすことになります。
が、どういうわけか関興はそのまま司州河東郡解県(現・常平村)に残り、村人に育てられたそうです。

『関羽伝』で、関興のお母さんについてわかることは、ここまで。
とりあえず、関興のお母さんは
★名前は、胡氏
★関羽が17歳のときに結婚
★長男・関平と同じお母さん
★関羽とはごく若い頃に離れ離れに…
(★杉田かおる似)
ということがわかりましたね。
今回の内容に関して、虚実の探求は別次元の問題ですので、あしからず。

[ 2004/12/10 02:21 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)
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