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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

「三国志感謝祭」覚書-「蜀地方」における仏教 

10/30(土)は新宿ロフトプラスワンで開催された「三国志感謝祭」に参加。
約3時間(+有志で朝まで…)どっぷり三国志な世界に浸ってきました。
加藤徹先生や満田剛先生という三国志に造詣の深い両研究家をはじめ、「三国志大戦」でおなじみのこままりえさん、サマソニなどで大活躍のおもしろ三国志さん、そして主催者の三国志活動家 坂本和丸さんらによる観客参加型のトークを中心に、おもしろ三国志さんの凱旋ライヴ(アンコール付き!)やレンタル開始のドラマ『三国志』特別上映などなど、盛り沢山の内容でお腹いっぱいになりました。
「三国志感謝祭」の詳細な内容は参加者のみなさんが各々書かれているので、私はとくに当日質問として出た「三国志な時代の仏教、とくに『蜀地方』における仏教」に関して、私の知る限りのことを列挙してメモとして残しておこうかと思います。
私も当時の仏教については少なからず興味があります。
なぜなら文献や出土品から、中国に伝来した最初期の仏教に触れることができるのが、後漢時代であり、三国志な時代だからです。
私が自宅に蔵している展覧会の図録や、書籍から、とくに「蜀地方」で頻繁に出土する「揺銭樹」に見られる中国最初期の仏教の有り様について触れてみようと思います。

揺銭樹とは?

後漢から三国時代、三国では蜀にあたる四川地域特有の副葬品。神獣が浮き彫りにされた陶製の台座に、青銅製の枝が取り付けられ、枝の天頂には朱雀が、枝には天上世界を思わせる西王母や一角獣などと共に、漢代に流通していた「五銖銭」が枝全体に所狭しとあしらわれている。
揺銭樹1
緑釉当座銅揺銭樹/墓に副葬する銭のなる木
後漢(25-220)
1983年8月、四川省広漢市万福獅象村出土

揺銭樹全体の高さ152.0cm、台座:高48.0cm
広漢市文物管理所

大三国志展』(2008年東京富士美術館)図録掲載


これは『大三国志展』でも展示されていた「国家一級文物(日本の国宝に相当)」に関する解説の抜粋です。
揺銭樹のオーソドックスな形態だと思われます。
このような揺銭樹の一形態として、「仏像」が配されたものが出土しています。

揺銭樹とは、死後の富貴や繁栄を願って墓に埋葬された副葬品で、後漢から三国時代にかけて、現在の四川省、陝西省、雲南省など中国西部で流行した。揺銭樹は本来、中国古来の神仙思想に基づく西王母などの図像を伴うが、そこに仏像も表されるようになった。
この作品は、陶製の台座上に揺銭樹の幹が伸び、その頂部に仏坐像を浅く浮彫する。幹には熊や大きな璧がつき、枝には銭や仙人など神仙世界を示す図像がみられる。
揺銭樹に仏像を表す場合、この作品のように頂部でなく樹幹に配する例が多く、その仏像は口ひげをつけ、通肩に衣をまとったガンダーラ風に作られる。本作品の仏像は、やはり一見ガンダーラ風だが、衣の襟元に放射線状の文様のあることや、腹前の円形の刻線表現が特異である。なお、写真の面は左手が施無畏印(せむいいん)、右手で衣の端をつかむが、裏面は左右が逆になる。
揺銭樹に表わされた仏像は中国に現存する遺品としては最古に属し、仏教伝来の初期に仏像が神仙と同様のものとして受容されたことをうかがわせる遺品として非常に重要である。
揺銭樹2揺銭樹3
仏像付揺銭樹
銅、陶製
現存高93.5、台座+樹幹81
陝西省城固県出土
後漢時代・2-3世紀
城固県文物管理所

『中国国宝展』(2004年東京国立博物館)図録掲載


写真を拡大して見てください。
口ひげが特徴的なガンダーラ風仏像の彫像です。
陝西省城固県とは漢中市から約3、40kmの地域です。
最初期の仏教がシルクロード経由で伝来したと考えると、漢中市という土地柄は伝来の途上もしくは少し離れた沿線上にあると捉えられるでしょうか?
仏像が配された揺銭樹は、他にもあります。

彭山は四川省成都市の南郊に位置する。この作品も後漢時代の墓から発見された。
中央に坐仏、仏の両脇に胡服を着た1対の人物を表わし、下に璧と思われる円形飾りをはさんで龍虎が向かい合う。仏は通肩に衣をまとい、おそらく右手は施無畏印を結び、左手は衣をつかんでいたのだろう。頭部は、地髪部に縦線、肉髻は横線を刻んで頭髪を表わしている。肉髻に横線を入れるのは、インド、マトゥラーでクシャーン朝(1~3世紀)に作られた初期仏像の巻貝形肉髻を思い起こさせるが、着衣形式や印相、地髪部に毛筋を刻むやり方などは、同じ時代のガンダーラ仏を手本としたとみる方が自然であろう。
現状は後ろ部分を欠損し、また下部にも欠損があると考えられ、当初の形状は明らかでない。彭山崖墓で出土した銅製品は非常に少ないが、この台座の出土した116号墓では、同姓の揺銭樹断片がわずかであるが見つかっている。このように、現存遺例からみた中国最初期の仏像は、仏教寺院ではなく、墓から副葬品の一部として見つかっている。
揺銭樹4
仏像付揺銭樹台座
陶製
高21.3
1942年、四川省彭山県116号墓出土
後漢時代・2-3世紀
南京博物院

『中国国宝展』(2004年東京国立博物館)図録掲載


こちらは成都近郊から発見された、仏像が配された揺銭樹の台座です。
シルクロードを前提にすると漢中市よりも明らかにルートから離れた場所での出土です。
「蜀地方(現四川省)」での出土であることから、伝来ルート上の狭域的な事象ではなく、当時の人々の宗教・信仰に何らかの影響を及ぼした結果が表れていると考えても差し支えないのではないでしょうか。
また、個人的に興味深いのは明らかに「三尊形式」で形作られていること。
この三尊形式も、巻貝形肉髻と同様にインド、マトゥラーにおいて見ることができるそうです。
初期ガンダーラでの脇侍は帝釈天と梵天だそうです。
この出土品ではたしかじゃありませんが、伝来の形を推測するのには面白い材料なんじゃないでしょうか。

最後に、書籍からまとめのお言葉を拝借。

中国流伝初期の仏教は、黄老思想や神仙思想を媒介とし、またそれらに依附して中国社会に広まった。つまり、この揺銭樹にみられる変化は、古代中国の宗教・信仰の変化に即したものであったとみてよい。このように、この坐仏揺銭樹はきわめて興味深い研究材料を提供しているのである。
(『貨幣の中国古代史』山田勝芳著/朝日選書)


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[ 2010/11/02 01:48 ] 仏像見立て三国志 | TB(0) | CM(0)

劉禅~東大寺・誕生釈迦仏立像 

ここ数回の記事がすっかり仏教づいてしまって…読者の中には
USHISUKEは、熱心な仏教徒か!?
と勘ぐっているかたがいらっしゃるかもしれないのが、ちょっぴり不安です。
が、それでも一向に意に介さず、今回は「仏像見立て三国志」でイカせていただきます!

今更ですが…ぶつぞう、ブツゾウと一口に「仏像」といっても、この世にはホントに多種多様な仏像が存在します。
今回ご紹介する「誕生仏」も、たくさーんある仏像の一ジャンル。
「誕生仏」は、その名の通り生誕後のブッダを具象化した仏像で、一般的に小さめでふくよかで愛らしい造形が特徴的です。
純真無垢…悪気の欠片も見当たらない、性悪説をすっ飛ばすほどのその姿に、思わず心も洗われるようですね。

この苛立たしいほどの純真無垢っぷりに、私は一人の男を想起します。
そう、蜀の後主にして亡国の君主・劉禅です。
彼は「暗愚」と評されることが多いのですが、彼の本質は「暗愚」とはまた違うところにあるんじゃないか?と、私は考えています。

白糸はどうにでも変わるものであり、ただ染められるままになる
(『蜀書』「後主伝」)

と、陳寿が絶妙に表現しているような、純真無垢な器の大きさ。
そして
阿鼻叫喚の長阪で父・劉備においてけぼりにされ、趙雲に救われたときも…
出戻る孫夫人に拉致されようとして、趙雲・張飛に阻止してもらったときも…
右上の写真のように、「やあ!ご苦労さま」ってな具合でのほほんと答えたんじゃないかと想像させる、図抜けた鈍感さ。
父である先主・劉備からは「大器」という稀有な特質のみを受け継ぎ、その「大器」を磨くことも、持て余すこともなく…超高級食材・諸葛亮も腐った食材・黄皓も同等に盛る、ただ「大器」としてだけ生きた男・劉禅。

「暗愚」とは、「道理がわからず、賢さに欠けること」とのこと。
ただ「大器」としてのみ劉禅を捉えたなら、彼を測る尺度として「道理」も「賢さ」もまったく問題にならないのです。

潅仏盆の中に、にこやかに立つ誕生釈迦仏。
劉禅自身も、自らの「大器」の中に盛られた一食材に過ぎなかったんじゃないか…そんな禅問答のような、でも的を射ているような、何だかまとまりませんが、何故だかそんなことを考え、結論に達し、しかも自分で納得してしまったので、これで終わります。


終わると言っていながら…おまけ。
「誕生仏」にはさらに可愛らしい像もありますよ。
長阪で趙雲の懐に抱かれる劉禅の像。
ちょっと窮屈だから、劉禅が右袖からひょっこり顔を出しているようで、なごみます。

--【「誕生釈迦仏立像」の豆知識】
[ 2006/03/01 02:29 ] 仏像見立て三国志 | TB(0) | CM(1)

西域諸国からの使者~浄真寺・二十五菩薩来迎会 

思い出したように更新されるこのシリーズ。
第6回目の今回は、仏像といえば仏像なんですが、ちょっと変わった仏像絡みのイベントより。
そのちょっと変わった仏像がらみのイベントとは…
東京都世田谷区にある浄真寺(九品仏)にて、3年に1回催される「二十五菩薩来迎会」別名「おめんかぶり」。
丁度今年はその3年に1回に当たる年でした。
なのでムリに有給休暇をとってまで、8/16(水)の暑い日に見物に行きました。
とりあえず、写真を見てください。
(仏罰覚悟で…)笑っちゃいませんか??
このイベント「ギャグなんじゃない?」と思えてしまうんですが…大マジ。
25人の檀家さんや一般のかたがデカイ仏像のお面をかぶって、25体の菩薩に大変身。
ガタイのいいお兄ちゃん、背の曲がったおばあちゃん…いろんな人が変身しちゃっているので、大小様々な「リアル仏像」の出来上がり。
そして、その「リアル仏像」たちが「あの世」から衆生を救うために、特別に設置された橋を練り歩く練り歩く…その光景は、世俗を超越した、眩暈を覚えるほどの異空間を感じさせます。

この「おめんかぶり」の眩暈を覚える程に奇妙な光景は、遥か昔…222年、西域諸国からの使者が魏に来訪したそのときを、私の脳裏でヒモづけてくれました。

曹丕が禅譲により帝位に就き「魏」を建国した後の222年、鄯善、亀茲、于寘といった各西域諸国の王からの使者が洛陽に来訪します。
顔立ちや装いの異なる使者や珍奇な献上の品々…西方から運ばれたエキゾチックな文化の香り。
後漢末の大混乱により途絶していた西域諸国からの使者来訪に、当時の魏の人々は、長らく失ってきた秩序と平和の匂いを感じ取ったことでしょう…歴史的に見ると、その秩序と平和は幻のように儚いものなんですが。

鄯善、亀茲、于寘といった「三国志」ファンにとって聞きなれない国々の概略は…
★鄯善(ぜんぜん・現新疆ウイグル自治区若羌)
人口20,120人
且末国、小宛国、精絶国、楼蘭国を支配下に置く、西域諸国では最も中華圏に近い国のひとつ。
★亀茲(きじ・現新疆ウイグル自治区庫車)
人口116,517人←結構デカイ!
姑墨国、温宿国、尉頭国を支配下に置く、西域北道の要衝に位置する国。
★于寘(うてん・現新疆ウイグル自治区和田近辺)
人口46,620人
戎盧国、扞弥国、渠勒国、皮山国を支配下に置く、西域南道の要衝に位置する国。
…といった感じです。
※人口は『漢書』「西域伝」より算出。
魏に使者を送った3国は、シルクロードの各地に点在するオアシス国家群の親分的存在の国々。
だからこそ
「西域の安定と魏による支配力の復活」
の象徴として、魏にとってその来訪が意味するところはとくに大きかったはずです。

「おめんかぶり」で二十五菩薩を先導する阿弥陀如来は、“西方”極楽浄土の教主。
西方から衆生を救いに来迎する如来&菩薩の群れと、荒れ果てた中原に秩序と平和の香りをもたらした西域諸国からの使者たち。
ほら、なんだか上手いこと見立てられていませんか?今回。


--【「二十五菩薩来迎会」の豆知識】
[ 2005/08/22 00:15 ] 仏像見立て三国志 | TB(0) | CM(3)

何晏~五百羅漢寺・文殊菩薩半伽踏下像 

年度が変わり、会社での部署も変わり…私はまたまた心を亡くす日々が続いていますが、みなさん如何お過ごしですか?
随分ご無沙汰になりましたが、これから約3回に亘って
“背徳の貴公子”何晏
関連の記事を書いていきたいと思います。
1発目は、恒例の「仏像見立て三国志」シリーズとして、何晏を仏像に見立ててご紹介。

何晏にクリソツ(死)の仏像は、東京都目黒区の五百羅漢寺に納められている「文殊菩薩半伽踏下像」。
この五百羅漢寺の菩薩像、世間一般的な菩薩像とは様式がいちいち異なるのが特徴です。

【ココが違う!其の壱】
ヘアスタイルが、菩薩像としては大変珍しいオールバック。
ちょっぴりドスの効いた白竜ばりのオールバック!
【ココが違う!其の弐】
厭味にならない着流しファッションと、片足を組んで書物に目を通すイカしたお姿。
とくに一般的な菩薩像は装飾品で着飾っているものなんですが…五百羅漢寺の菩薩像は装飾品が一切排除されたまるで如来像のよう。
【ココが違う!其の参】
「半伽踏下像」は、「左足を下げて右足を組む」のが一般的な様式。
にも関わらず、五百羅漢寺の菩薩像は、どういうわけか足の組み方が逆。
【ココが違う!其の四】
そして最後に!
都会的でクールでセレブな雰囲気を像全体から漂わせながら、書物に目を通している姿自体が大変珍しいものです。

と、こんな風にいちいち特徴的な五百羅漢寺の文殊菩薩像には、三国志界でもいちいち異才を放っている何晏こそがタリピツ(死)。
後漢末の大将軍・何進の孫にして、曹操の養子という超絶稀有な家柄の貴公子。
…なのに、「五石散」というドラッグでバッキバキにキメては、お白粉を塗って自分の影にすらウトウトしながら街をプラプラするという、名うての道楽者。
…かと思いきや、『老子道徳論』『論語集解』(現存最古の『論語』の注釈書)など、中国4000年の歴史的にもエポックメイキングな著作や詩文を次々と発表。
中国思想界に当時も、現代でも君臨している巨魁です。

「三国志」の世界では、後世への影響力という点で養父・曹操と双璧を為すだろう人物。
パンピー(死)の尺度ではどうにも量りがたい…それが何晏の魅力でしょうか。

--【「文殊菩薩半伽踏下像」の豆知識】
[ 2005/04/17 23:25 ] 仏像見立て三国志 | TB(0) | CM(1)

孟獲、孟優~薬師寺・薬師如来像台座 

随分ご無沙汰のジャンル、久々の登場。
通算第4回目の今回は、奈良県の大寺・薬師寺からお送りします。

薬師寺と言えば、元プロボクサー・薬師寺保栄!
そして、浪速のジョーこと、辰吉丈一郎との世紀の一戦!
勝利への十字架を背負った好敵手の、意地と意地とのぶつかり合い。
いやぁ、カッコよかったッスね。
カッコよかったんですが、今回とはまったく関係ありません。

薬師寺には、なんと数えること11もの国宝が揃い踏みしています。
中でも最も有名なのが、「薬師三尊像」。
その名の通り、ありがた~い仏像が『太陽戦隊サンバルカン』ばりに3体並んでいます。
「バルイーグル」よろしく中央にまします薬師如来(1枚目の写真)は、衆生を包み込むようなふくよかで親しみやすい表情、そしてその特徴的な黒い光沢に気品が備わっている逸品です。


…なんですが、今回の主役は薬師如来ではありません。
薬師如来が腰を降ろしている台座の方に、おもむろに注目。
おや?誰かいますよね。
窓か、はたまた洞穴のようなところから、誰かコチラを窺っているようですよ(2枚目の写真)。
ほれほれ、怯えてないで出てらっしゃい。
オジサンは、怖くないよ。


…と、さらに近づいてみると…
あ!
鬼!?
しかも2人(匹)いますよ。
上半身は裸剥き出しで、ちょっとお洒落な首飾りなんかしてますね。
髪はデーブ・スペクター風の焼きそばヘアだけど、顔はホッペがふっくらして何処か愛嬌があります。

何だか“南蛮王”孟獲、孟優兄弟みたい(3枚目の写真)。
とすると、台座の主である薬師如来は諸葛亮といったところでしょうか。
場面的には、かの有名な「七縦七禽」のうち4回目、兄弟で捕らえられて解放された直後くらい。
兄よりもやや線が細く、慎重な性格の孟優(写真・右)。
諸葛亮に泣き泣き礼を言いながら解放された後、兄・孟獲(写真・左)と再会し、率直に自分の気持ちを吐露します。
優「ヤベェよ、あんちゃん。うちら負けてばっかりで…あのショカツリョウとか言う奴には歯が立たんのと違うか?」
獲「馬鹿言え。あんちゃんを信じろってぇの。それよか、弟よ、兵隊い~っぱい持ってる友だちいねぇのかよ」
優「そっか…だよな。あんちゃん、子どもんときから1番強かったもんな。んだなぁ…朶思大王が近くにいるよ。あいつんとこはどう?」
獲「さすが、弟!そんじゃ行ってみるか!しゅっぱ~つ」
…と、南蛮のお気楽兄弟は、今日も仲良く元気に彷徨するのでした。


--【「薬師三尊像」の豆知識】
[ 2005/03/18 07:12 ] 仏像見立て三国志 | TB(0) | CM(3)
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