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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

三国志名城シリーズ2 ~麦城~ 

ず~いぶん前に第1回(陳倉城)を書いて以来、まったくノータッチ、おさわり禁止状態だった本シリーズ。
ふと気が向いたので、第2回をお贈りします。
今回は、麦城(ばくじょう)です。
荊州南郡(現・湖北省当陽市)にあったお城。
荊州で敗死する蜀将・関羽が最後に拠った城として、とくに知られていますね。
「三国志」では、(多分)後にも先にもこのエピソードしかありませんが、麦城、そんじょそこらのポッと出の城と同じ扱いにしては罰が当たります。

麦城は、関羽が拠った219年を遡ることなんと約700年も前の春秋時代に築城された、由緒正しきお城なのです。

春秋五覇のひとりを輩出したこともある「楚」の昭王(在位前515~前489年)が築城したと伝えられています。
由緒正しい麦城には、由緒正しい人物によるエピソードも残されています。
ときは前506年。
主人公は、漢文の授業なんかにも頻出する伍子胥(ごししょ)。
既に死んでしまっていた親の仇(楚の平王。楚の昭王の父)を棺桶から引きずり出して、300回も鞭で打ち続けることで報復を果たしたという、常識を超越したドS級の偉人。
この伍子胥、敵城であった麦城を攻略するために、麦城の東に驢城、西に磨城という2城を築くという入念さでもって、ついに陥落させたといわれています。
『三国志集解』の「呉主伝」によると、中国では「東驢西磨、麦城自破」ということわざにもなっている…らしいです、意味は知りませんが。

そんな由緒正しい麦城ですが、やはり三国志ファンにとっては関羽の死と切っても切り離せない哀愁漂うお城。
麦城のこととかもっと詳しく知りたい!…と、常日頃から思っているような極少数のマニアックな三国志ファンのみなさんにピッタリの、イイ素材を見つけました。
「建安の七子」のひとり王粲作の詩「登楼賦」です。

王粲がとある楼に登って詠った詩なのですが、何を隠そうこの楼こそが麦城の楼といわれているのです。

「登楼賦」は205~208年の時期に作られたそうなので、詩に詠われる麦城の風景は、死の直前の関羽が見た風景とほぼ同一の描写がなされているということになります。
※「『登楼賦』の楼=麦城の楼」であること、詩作時期については、『新釈漢文大系第80巻 文選(賦選)中』(高橋忠彦著/明治書院刊)をご覧ください。
その繊細かつ詩情豊かな描写を抜粋すると…

めったにないほど広々と開けた地形である。…片側には、清らかな漳水の流れが走り、もう片側には、曲折する沮水の長い中州が見える。背後には、丘陵地帯が広く続き、眼下には、流れにうるおった低湿の地が見える。…華や実が野原を覆い、黍(きび)や稷(こうりゃん)が田畑にあふれている。…平野は目に見える限り続いており、その果ては、荊山の高い峰に隠れている。彼方へ続く道は、うねうねと長く続き、その間に横たわる川は深く、渡りがたい。
(『新釈漢文大系第80巻 文選(賦選)中』高橋忠彦著/明治書院刊)

…眼を瞑ると、時空を越えて、関羽が見つめた景色が重なってくるようじゃないですか??
関羽が麦城を脱し、捕縛され、斬首されるのは12月。
あなたの眼下に広がっている山野や田畑は、一面の雪景色だったかもしれません。
そして、北西の方角に眼を向けると、地平線のその先には、関羽の義兄であり漢中王を称して人生の絶頂にいる劉備の姿が…。
ああ無情なり、麦城。

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[ 2006/04/01 08:37 ] 三国志名城を行く | TB(0) | CM(0)

三国志名城シリーズ1 ~陳倉城~ 

日本各地をぶらり旅すると、多くの地方に「城」もしくは「城址」が存在します。
城巡り、心躍りますね…「兵どもが夢の跡」ってな感じで。
他人がいないのを確認してから(…気が小さいんで)
「うおぉぉぉぅ~!」
とか叫びながら、傘とかを捧げ持って、つい走り回ったりしてしまいます。

日本に名高き「三名城」(熊本城姫路城松本城)などなどがあるように、大乱世の三国時代にも書物他にその名を刻む名城が各地にありました。
…が、同じ「城」という単語を使っても、概念的にも、想起するイメージも随分異なるかもしれません。
日本における城が、主に「武士」などの戦闘員とその家族だけが入る防御施設を指すのに比べ、中国における城は、都市や村などの居住地の全周を囲む防御施設を指すためです。
そんな違いも踏まえつつ、このシリーズでは、難攻不落の城、特殊なエピソードを持つ城などなどを紹介していきたいと思います。

第1回目は、三国志指折りの難攻不落の堅城・陳倉城。
陳倉城は、雍州扶風郡(現・陜西省宝鶏市近く)にあった城。
「兵法三十六計」の第八計「暗渡陳倉」にも名を残すほど、古い時代から重要な拠点であり続けた陳倉城。
三国志での堅城っぷりはこれまた抜群なもので、次の2つのエピソードがとくに有名です。

1.皇甫嵩、陳倉城の堅固さを頼り、賊徒を平らげる之巻
188年、涼州の王国という人物が叛乱を起こし、陳倉城を包囲したときのこと。
皇甫嵩と董卓が仲良く(仲悪く?)一緒に討伐に向かいます。
そのとき皇甫嵩は、「陳倉城は守りが堅いので、救援を急ぐ必要はない。王国軍が攻め疲れた頃を見計らって、攻撃すべきだ」との方針をとります。
結果…

王国は冬から春に至るまで八十余日に渡って陳倉を包囲したが、城は堅固で守りも堅く、遂に落す事ができなかった。賊たちは疲弊し、結局自ら囲みを解いて去った。…(追撃した)皇甫嵩は連戦して大いに敵を破り、首を斬る事一万余級に上った。王国は逃走して死んだ。(『後漢書』「皇甫嵩伝」)

…という大功を立てました。

2.魏将・郝昭、諸葛亮の大軍を防ぐ之巻
228年12月、その年の初めに街亭で敗北を喫した諸葛亮は、再び大軍を率いて陳倉を突きます(第2次北伐)。
陳倉城を守るは、兵卒からの叩き上げで守備隊長に就任している郝昭。
1,000人余りの郝昭守備隊VS諸葛亮が率いる数万にのぼる蜀の大軍。
降伏勧告を跳ね除けた郝昭は、20日間に亘る壮絶な防衛戦を戦い、陳倉城を墨守します。
諸葛亮がはしご車(雲梯)や戦車(衝車)といった兵器を駆使すれば、火矢や石臼で潰し、トンネルを掘ってくれば、切断し…昼夜構わず、知力、死力を尽くして守り抜きました。

…郝昭他の戦いも見事ですが、北に黄土台地の峻崖を背負い、南に渭水を臨む要害の地に建てられた城そのものの価値も相当なものです。
三国時代、陳倉城は、数多の攻撃者にとってとてつもなく巨大な壁とし屹立していました。


[ 2004/12/30 03:54 ] 三国志名城を行く | TB(0) | CM(0)
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