日本各地をぶらり旅すると、多くの地方に「城」もしくは「城址」が存在します。
城巡り、心躍りますね…「兵どもが夢の跡」ってな感じで。
他人がいないのを確認してから(…気が小さいんで)
「うおぉぉぉぅ~!」とか叫びながら、傘とかを捧げ持って、つい走り回ったりしてしまいます。
日本に名高き「三名城」(
熊本城、
姫路城、
松本城)などなどがあるように、大乱世の三国時代にも書物他にその名を刻む名城が各地にありました。
…が、同じ「城」という単語を使っても、概念的にも、想起するイメージも随分異なるかもしれません。
日本における城が、主に
「武士」などの
戦闘員とその家族だけが入る防御施設を指すのに比べ、中国における城は、都市や村などの居住地の全周を囲む防御施設を指すためです。
そんな違いも踏まえつつ、このシリーズでは、難攻不落の城、特殊なエピソードを持つ城などなどを紹介していきたいと思います。
第1回目は、三国志指折りの難攻不落の堅城・陳倉城。
陳倉城は、雍州扶風郡(現・陜西省宝鶏市近く)にあった城。
「兵法三十六計」の
第八計「暗渡陳倉」にも名を残すほど、古い時代から重要な拠点であり続けた陳倉城。
三国志での堅城っぷりはこれまた
抜群なもので、次の2つのエピソードがとくに有名です。
1.皇甫嵩、陳倉城の堅固さを頼り、賊徒を平らげる之巻
188年、涼州の王国という人物が叛乱を起こし、陳倉城を包囲したときのこと。
皇甫嵩と董卓が仲良く(仲悪く?)一緒に討伐に向かいます。
そのとき皇甫嵩は、「陳倉城は守りが堅いので、救援を急ぐ必要はない。王国軍が攻め疲れた頃を見計らって、攻撃すべきだ」との方針をとります。
結果…
王国は冬から春に至るまで八十余日に渡って陳倉を包囲したが、城は堅固で守りも堅く、遂に落す事ができなかった。賊たちは疲弊し、結局自ら囲みを解いて去った。…(追撃した)皇甫嵩は連戦して大いに敵を破り、首を斬る事一万余級に上った。王国は逃走して死んだ。(『後漢書』「皇甫嵩伝」)
…という大功を立てました。
2.魏将・郝昭、諸葛亮の大軍を防ぐ之巻
228年12月、その年の初めに街亭で敗北を喫した諸葛亮は、再び大軍を率いて陳倉を突きます(第2次北伐)。
陳倉城を守るは、兵卒からの叩き上げで守備隊長に就任している郝昭。
1,000人余りの郝昭守備隊VS諸葛亮が率いる数万にのぼる蜀の大軍。
降伏勧告を跳ね除けた郝昭は、20日間に亘る壮絶な防衛戦を戦い、陳倉城を墨守します。
諸葛亮がはしご車(雲梯)や戦車(衝車)といった兵器を駆使すれば、火矢や石臼で潰し、トンネルを掘ってくれば、切断し…昼夜構わず、知力、死力を尽くして守り抜きました。
…郝昭他の戦いも見事ですが、北に黄土台地の峻崖を背負い、南に渭水を臨む要害の地に建てられた城そのものの価値も相当なものです。
三国時代、陳倉城は、数多の攻撃者にとってとてつもなく巨大な壁とし屹立していました。
AUTHOR: 長尾景虎
URL: http://sangokushilover.hp.infoseek.co.jp/
DATE: 12/30/2004 08:54:26
40000HITおめでとうございます^^
ついこないだ30000だとおもったらもう一万も・・・
三国志漂流に負けないよう、自サイトもがんばっていきたいと思います^^