USHISUKEさんの話によれば、世界観の提示には論者が生きてきた時代背景が色濃く反映されているという。60~70年代であれば安保闘争が、80年代~90年代であれば高度経済成長が、という風に。言い換えてしまえば、冷戦構造による二項対立と言えるかも知れない。
もし、この理屈が正しいとして、だ。その先に述べ得る理論は如何なる時代背景を持つべきか。それは言うまでもない。冷戦崩壊後の多極化、非国家的主体の台頭こそがそうであらねばならぬ。
「三国志」の英雄全員が、負け組なのです。
三国志モノは数あれど、『蒼天航路』の曹操ほどビッグマンだった曹操も未だかつてありませんでした。
かねがね「三国志」とバブル経済やらイケイケ経営者やらを重ね合わせていた『プレジデント』・『モーニング』時代、「何かが妙だ、おかしい」と感じてずーっと首をひねり続けていた
「三国志」とは、バブル終焉後もだらだらと生き延びていたかつての大国が、ドカンと傾いて一気に滅び去っていく、そんな低成長時代を描いたがっかりな物語なのです。
ですから、登場する連中も、がっかりさせられるというか、ろくでもない連中ばかりです。到底、松下幸之助や井深大のような理想的な経営者など、現れるべくもありません。
低成長デフレ移民時代の話である「三国志」と、バブル時代の企業経営を無理矢理にダブらせるなど、まさに亡国の兆し、こんな幻想に酔っている経営者たちは、絶対確実に経営に失敗するに違いない
自民党がぶっ潰され、国民総中流幻想も終身雇用も何もかもがうたかたの夢となり、いまだかつて日本人が体験したことがなかった先の見えない低成長時代が到来した今こそ、日本人は低成長時代の物語である「三国志」に学ぶべき時なのです。
孫権のプライドのかけらも感じさせないのらりくらり日和見外交主義が必要とされているような気もします。…その時々で態度を変え思想を変え、とにかく食えればいいや、という。
※ちなみに、初版の際の「序」を転載されているので旧字体など使われていますが、本編は新字体に読みやすく改められているのでご安心を。私が本書を著はすに至つた次第は、これら一般の常識の根據であり、歴史の研究にとつて價値ありと信ぜられる各種の資料に直接觸れて、この時代に生きた孔明の人となりを再現せんとすることである。…私はあくまで孔明の傳記を書くことに終始し、彼の生涯の各時期と彼の環境である當時の社會との關聯において生起しきたる事件を説明しながら彼の内的生活の動きをも窺ひ知らうと庶幾した。
これらの友だち同士(崔州平や徐庶ら)は時にはたがいに将来の希望を語りあったであろう。
襄陽一体の平和な天地には、かくのごとく、諸葛亮・崔州平・徐庶・石韜・孟建・司馬徽・龐徳公といった一団の人々の交際がいとなまれていた。孔明が名を知られ、交渉のあった範囲は湖北省中央部に居住を定めた名族たちの社交界を出なかった。しかし平和で幸福であった。
「参署といって行政措置の決定前に意見を述べ合い検討することは衆人の思慮を集め忠益を広めるのによいことである。…私の知人の徐元直(徐庶)はこれに処して惑わず、また董幼宰(董和)とは参署七年、不十分なことがあれば十返に至っても来同して事の是非を告げ教えあった。いやしくも能く元直の十分の一、幼宰の慇懃を慕って、国に忠あればすなわち亮は過失を少なくすることができよう」と、部下を訓励するとともに自らの反省を忘れないゆかしい態度を示した。…孔明はいまも彼(董和)を追思し官吏道の典型と歎じたのである。
襄陽以来の旧友向朗を丞相長史の後任に定め、彼に後事を任せ…出発の時参軍馬謖は南中統治につき献策して大いに孔明の信任を博した。
…孔明はそれでも(馬謖を重用し過ぎないように劉備が誡めたことを指して)信任の念かわらずつねに引見して終日談論することもあった。
同じく敗戦の責により…襄陽以来の孔明の旧友である向朗も免官された。
孔明は…大変仕事を愛する人であった。…かつて自ら会計の書類を検べていたことがあった。主簿の楊顒が室に入ってきて諫めた。彼は楊儀とともにむかし襄陽の蔡州の湖の辺に住み、孔明の旧友の一人である。…孔明はこの忠言に感謝の意をのべ、楊顒の歿するに及び涙を垂れること三日であった。
このエピソードを読んで、私は崔州平・徐庶・董和・胡済を「諸葛亮の四友」と勝手に命名することにしました。かつて自分が交友して有益であった人たちを数え
「むかし、初めに州平(崔州平)に交わりしばしば得失を聞き、後に元直(徐庶)に交わり勤めて啓誨された。前に幼宰(董和)と事をともにし毎言すなわち事理を尽した。後に偉度(胡済)と事に従いかずかず諫止をうけた。自分は資性鄙暗でことごとく納れることができなかったが、しかもこの四子と終始好合し、またもって彼らが直言に疑わなかったのを明かにするに十分であった」
「勢利の交はもって遠きを経難し。士のあい知るや、温にも華を増やさず、寒にも葉を改めず、四時を貫いて衰えず、険夷を歴てますます固し」
功利的な交友を非とし、常緑樹の譬をもって金石もかわらぬ友情の美を説いたもの
人に頭をさげることを嫌う関羽が、戦うことをやめて擒捉されたというのは、関羽の死を惜しむ後世の者が創った話であろう。が、かえって関羽の名誉をそこなうものである。
(劉備は)漢中王となった。ながく劉備とともに歩き、もっとも深く劉備を理解していた関羽は、そのことを惜しんだ。
-劉備の志とは、そういうものではなかった。
もっと超絶したものであった、と関羽はいいたかったであろう。それを天下に知らしめるために、関羽はひとりで魏と戦い、呉と戦った。それはすなわち劉備への敬愛の表現であった。
関羽はわずかに笑み、
「天帝のお召しである。われらは天に昇ってふたたび会おうぞ」