三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

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燃えろ!頑固ジジイ 

紅白歌合戦格闘技よりも三国志好きのみなさん、大晦日も変わらず三国志まみれで過ごしていることでしょうね。
私は、『正史』6巻(『呉書』)を片手に帰郷中です。
なので、しばらく呉のお話が中心です。
熱い血潮の男闘呼たちが所狭しとむさ苦しさを醸し出しているのが、呉の特徴かと思います。
そんな中で、81年間「頑固一筋」に生き抜いた頑固ジジイ・張昭の熱さも生半可なもんじゃありません。
何せ主君・孫権とのいざこざから蟄居をしていた際、孫権自身から家(の門)に火を放たれて、文字通り燃えてしまいそうになったくらいなんだから。
そんな頑固ジジイ・張昭の口癖は、「殿!そんなことでは…じぃは、殿のお母上と孫策さまに合わせる顔がありませんのじゃ!」。
孫権としてはこの口癖が出ると、何とも対応のしようがなかったようで…また、この辺りが微笑ましかったりもするんですよね。
それでは、みなさんよいお年を。

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[ 2003/12/31 21:58 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

仁義なき戦い~呉死闘編~ 

252年に呉の大皇帝・孫権が逝く…。
「三国志」の最後の巨星が堕ちたその後、呉では皇族を軸とした“殺るか殺られるか”のヤクザな世界が展開されます。
まさに、仁義なき戦い
前代未聞の、国を挙げた茶番劇です。
主要な部分だけでも列挙してみると…
★「ベラベラしゃべらんと、ひっこんどれい!」編
孫権逝去の翌年に早速、孫峻(孫堅の弟・孫静の曾孫)が諸葛恪を暗殺。
そしたら、254年には孫英(孫権の長男・孫登の子)が孫峻の暗殺を計画し、逆に露見したため自殺させられ…。
さらに255年、孫峻と同じく孫静の曾孫・孫儀による、孫峻の暗殺計画が露見し、またしても孫儀自殺。
★「あがな馬鹿2代目づらされてたまるか!」編
258年、皇帝・孫亮自身が、孫峻死後に実権を握った孫綝(孫峻の従兄弟)の誅殺を企て、露見。退位させられるという事態へ。
★「呉にヤクザは二つもいりはせんのじゃ!」編
孫亮退位後、新皇帝に就いた孫休はその年のうちに、自分を皇帝に推してくれた孫綝を処刑。
★「もう、わしらの時代はしまいで」編
呉最後の皇帝・孫晧が就任後もドタバタ劇は続き、孫秀(孫堅の四男・孫匡の孫)、孫楷(孫策の孫)…と次々に皇族が晋へ逃亡。
そして、孫権逝去から28年後の280年、呉滅亡。
晋にあっけなく滅ぼされた原因は、国内の長年にわたる不安定さがとっても大きかったと思われます。
つまり…自滅。

[ 2003/12/30 12:42 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

袁術イケメン説 

ワガママし放題の暴政を誇り、孫家から玉璽を奪うと皇帝を僭称し、挙句の果てには逃亡生活の中で血を吐いて死す…という末路を歩んだ袁術。
『蒼天航路』に至っては、まるで「猿」のように描かれている袁術。
…でも、ちょっとまった!
袁術は、なかなかのイケメンだったかもしれませんよ。
根拠は、「袁術の娘」の容貌と行状。
「袁術の娘」は、袁家滅亡後、孫権の後宮に迎えられます。
そして、『正史』の記述では…
★かなりの美貌の持ち主だったようです。「袁術の娘」は、美しい容貌の女性に激しく嫉妬する他の夫人によって殺害されたから。
★行状も、かなりよかったらしいです。子どもがいないからという理由で皇后の位を固辞したという、謙譲の美徳溢れる女性でした。
★孫権の正室が死んだ際、「袁術の娘」が皇后の候補となるほど寵愛を受けていました。彼女の美貌と行状の良さ、推して計るべし。
つ・ま・り、「袁術の娘」がこのように美貌と行状の良さを兼ね備えているなら、その父親たる袁術も、男前で、性格もイイというちょっとしたイケメンだった可能性があるということです。
袁術の新しいイメージは、キムタクで。

[ 2003/12/29 08:42 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

三国志自然紀行 

黄河、長江、四川省を囲む山波…日本人の想像力を遥かに凌駕するスケールの地理的要因が、「三国志」の人間ドラマに与えた影響はとっても大きいと思います。
例えば、「蜀の桟道」の険峻さは、言後を絶するものです。
私は5、6年前に「三国志の旅」をしてきました。
その旅で成都~五丈原の途上、「蜀の桟道」を訪れる予定だったんですが、なんとバスが山を越えられず結局行けずじまいになりました。
現代文明すらも拒絶する、その険峻さ。
日本では考えにくい種類の、大自然の驚異です。
また、長江についても、当時の赤壁周辺の川幅は約5kmあったといいます。
これは、日本での「川戦」の想像の範疇を軽く超えています。
この川幅だからこそ、
曹操軍兵士の船酔いが戦局に影響を及ぼし、
曹操が軍船を鎖で繋ぐという用心深さを示し、
赤壁の一戦で曹操が渡河を断念した
という現象にも理解が及ぶというものです。

[ 2003/12/28 13:16 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

ひもじい三国志 

蓑麿さんから「人肉食」についてのコメントもいただいたので、三国時代の食糧供給事情について。
当時の食糧供給事情は、極めて悪かったようですね。
だからこそ、曹操はかなり早い時期から「屯田制」他に至る農業政策を模索し続け、食料生産性の向上を図ったんですが。
食糧供給事情の劣悪さは、例えば…
★袁紹軍の兵士は、「桑の実」を食物としていた
★袁術は、「蒲(がま)」と「ハマグリ」を取って食料の補給を行なっていた
★食料が極度に欠乏したとき、程昱が「人間の乾肉」を曹操に供給した
…ということからも、ヒシヒシと伝わってくるかと思います。
桑の実を食べただけで、命のやりとりはできんですよね。

[ 2003/12/27 11:34 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

三国志的拉致問題 

現在日朝問題最大の焦点のひとつとなっている拉致問題…三国時代にも、拉致事件がアッチコッチで頻発していました。
蛮族と呼ばれていた周辺少数民族を自国に強制移住させることが、魏呉蜀いずれの国でも恒常的に行なわれていました。
その中でも最も大規模に行なわれた拉致が、呉皇帝・孫権主導による台湾・沖縄への「人狩り」です。
1万人に及ぶ武装兵を船でドンブラコと派遣し、数千人の現地人を拉致するという、驚天動地の暴挙。
ただし、どうも沖縄へは到達できなかったようで、拉致されたのはすべて台湾人だったようです。
大規模拉致の背景には、呉が抱える人口減少問題がありました。
三国の拮抗状態と魏の政治改革の成果により中原が安定し、長江流域に流れていた民が再び中原に流出していくことで起こる問題。
歯止めがかからない人口流出に対し、呉は現ベトナム・ハノイ周辺の半独立勢力だった士政権の直轄化などとともに、上述した大規模拉致も行なっていたというわけです。
怖いですね…まったく。

[ 2003/12/25 23:48 ] 辺境三国志 | TB(0) | CM(0)

人喰い・王忠 

劉備が徐州刺史・車胄を殺害した際、討伐のため曹操から派遣された将軍のひとりが、王忠。
戦下手の劉備にコテンパンにされただけの彼は、なんと「人喰い」で有名な人物でもありました。
三輔動乱(董卓による長安遷都以後の混乱)の際、お腹が減りすぎて、ついつい人を喰べてしまったようです。
ペロリと。
…儒教では、父祖からもらった身体を傷つけることを極度に忌み嫌う習慣があったりするようです。
この「人喰い」という行為は、私たちが想像する以上に他者への侮辱行為であるとともに、社会的に軽蔑されまくるに十分な行為でもありました。
「人喰い」という過ちのおかげで、その後も公衆の面前で曹丕からからかわれたりして…王忠は、困るやら恥ずかしいやら。

[ 2003/12/24 21:38 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

「review」 by deeさん 

三国志に関する書籍の紹介があります。
三国志に少しでも興味がある人は必ず読んでいると思われる『蒼天航路』は、稀に見る良質の三国志漫画本ですね。
一人ひとりの登場人物に魂を感じます。
『蒼天航路』のように、活き活きした溢れ出す個性を文章で表現できるようになれば…というのが、私の願いです。
http://www.myprofile.ne.jp/rhoads+blog+2003+12+4

[ 2003/12/23 09:17 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

リンク集を作りました。 

どうも、Doblog外のBLOG他を「ブックマークリスト」に加えられないみたいです。
「三国志」に関するBLOGやサイト、また個人的に気になるBLOGやサイトとのリンクは、ここから貼ります。
何かのお役にでも立ててもらえれば、これ幸い。

[ 2003/12/23 09:13 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

『蒼天航路』の魏諷、今後に期待 

『蒼天航路』読んでいる人、多いと思いますが…魏諷がチラチラッと登場していましたよね?荀攸の葬儀のときなどで。
髪の毛が仏さんみたいな感じで、目がキラキラしていた、挙動不審の男。
『正史』を紐解くと、魏諷は、219年(蜀による漢中侵攻戦の最中)に魏都・ギョウで大規模な叛乱未遂を起こした首謀者とのこと。
「魏諷の乱」では、張繍、王粲、宋忠の子、劉ヨクの弟などが叛乱計画に参加し、魏諷と同様に処刑されたとの記述から…どうやら著名な魏臣の子弟を大量に巻き込んだ叛乱計画だったところが特徴なようです。
『演義』には1mmも顔を出さない魏諷を、王欣太がどのように描くのかが楽しみで、仕方ないです。

[ 2003/12/23 08:58 ] 三国志BOOKS | TB(0) | CM(0)

劉封の叫び 

劉封って、可哀想ですよね。
彼と劉備との養子縁組は、恐らく政略的なものだったはずです。
つまり、赤壁での戦勝後、まだ荊州が落ち着く前に、荊州の豪族との人脈強化の一環として、劉備が政略的に養子縁組を行なったんだと思うんですが…劉封は結局、嫡子・劉禅が後継者に決定する中で邪魔者となり、消されてしまいます。
劉封が、義父・劉備から自殺を強要されたのは、荊州失陥後のこと。
すなわち、荊州豪族との関係を絶たれた劉備にとって、劉封の存在価値が激減したことも意味します。
「オヤジ、オレ自身を見てくれ!」…劉封の叫びが聞こえてきそうです。
それと、もうひとつ。
劉封を消すように仕向けたのは、諸葛亮です。
劉封抹殺は、諸葛亮の政治に対する現実主義者ぶりが窺えるエピソードでもあります。


[ 2003/12/22 03:25 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

「正史三国志人物列伝」は、メルマガです。 

このBLOGにあるジャンル「正史三国志人物列伝」は、不定期メルマガの記事を転載しているものです。
よければ、メルマガとかも覗いてやってください。
http://www.melma.com/mag/04/m00095304/

[ 2003/12/21 18:25 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)

「MyDoblog内検索」のススメ 

「MyDoblog内検索」、使ってくださいね。
例えば知りたい武将の名前とか入れると、ズラーッと関連記述が出てくるので。

[ 2003/12/21 18:23 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)

年齢による愉しみ方の違い 

同じ「私」が読んでいるにも関わらず、年齢や生活環境によって三国志の世界はいろいろな顔や愉しみ方を提示してくれます。
例えば初めて三国志に接したのは横山光輝『三国志』で、私が中学生の頃でした。
全60巻を立ち読みしようとして、店員にドロップキックを見舞われたりしました。
そのときは関羽や張飛、趙雲といった武官の活躍に心を奪われていました。一騎打ちでズバズバ敵を倒していく彼らの姿は、とっても爽快でした。
…それから幾星霜…今は、政治的な駆け引きや因果関係を考えることに関心があります。
★袁紹陣営の崩壊には、冀州以前からの家臣を中心とした派閥VS冀州閥の根強い抗争が影響していたのではないか?
★孫権の後継者争いに、孫家と江南豪族層との確執が関係性しているのではないか?
曹操が無茶をしてまで遂行した烏丸征伐の意義は?
などなど、何だかオヤジ臭くなってきました…考えていることが。
社会に出て、汚れちまいました。


[ 2003/12/21 02:15 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

諸葛亮の北伐について 

今日は土曜日だからか…また思いつきました。
諸葛亮の北伐についてです。
諸葛亮の北伐のさしあたっての目標は「攻撃は最大の防御」にあって、必ずしも短期で「魏討伐」を企図したものではなかった!…というのが私の考えです。
涼州の確保によって、蜀の玄関口である漢中防衛線を強化すること、兵数、兵站の充実を図るというところに、北伐の主眼があったと考えています。
…なんですが、こっからが主題です。
涼州確保での別のメリットを思いつきました。
魏と西域諸国との連絡を絶ち、逆に蜀と西域諸国との繋がりを強化できる…というものです。
これは財政的に困窮を極めていた蜀にとって、とっても大きなメリットだったのではないか?と思います。
辺境経営が「金」になることは、諸葛亮自身の南征とその後の南中経営で実証されています。
穀物他の「物なり」に期待できない、益州、涼州の2州にあって、辺境経営は貿易や珍品を中心に即収益をあげられる大切な「金づる」だったように思えてきました。
魏の収益源を奪取し、そのまま自国の収益源とできる。
しかも対外的な効果として、周辺諸国・諸民族の宗主国としてのイニシアチブを魏から奪取できることのメリットは計り知れないものがあります。
諸葛亮…やっぱりスゴイ政治・軍事家だなぁ。

[ 2003/12/20 11:07 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

「蜀漢」の異常性 

漢の復興を大義とした「蜀漢」の末路が、後漢の末路と同様に宦官の害悪にあったという喜劇。
時代の潮流として「蜀漢」に未来は無く、劉家の「徳」と、異常なまでの任侠的結束力のみが国を国たらしめていたのか…と考えると、「蜀漢」の異常性がますます如実になってきますね。
かえって、九品官人法や屯田制、兵戸制の制定などなど…組織としての革新性で時代の先端にあった「魏」が、三国時代を常に牽引していたことの方に正常性を感じます。

[ 2003/12/20 08:58 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

英語とか…グローバリズムに 

「三国志」って「Three Countries' Ambitions」とかになるんでしょうか?英訳すると。

[ 2003/12/19 01:16 ] その他雑談 | TB(0) | CM(1)

「反董卓連合」への参加・不参加で決まっていた!? 

「何」が決まっていた!?…のかというと、後漢末の覇権争いを勝ち残っていくための「席」が決まっていたということです。
三国時代を形成した立役者である3人、曹操、孫家は反董卓連合内で名声を上げ、劉備も義勇軍ながら末席に参加していました。
袁紹、袁術、公孫瓚…も「席」に坐ることができる権利はもっていましたが、あえなく争乱の中で滅んでいきました。
劉表、劉焉(劉璋)、張魯…といった「反董卓連合」への積極的参加が見られなかった人々、もしくは後発組は覇権を争うところまでいけずに、一方的に討伐される立場に留まった感があります。
190年前後、後漢末の大乱初期時点の態度が、それぞれの人物の将来を決定的に左右したといえそうじゃないですか?

[ 2003/12/18 07:13 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)
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