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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

精神的なオルタナティヴ百花繚乱 

今日は「思い」が巡ったので、不得意な分野ながら思想や哲学、詩歌とかその辺について書きます。
はっきり言って、まとまりゼロです。
…さて、『正史』や『演義』は勿論、小説や漫画なども読んでいると、三国時代がいかに精神的な革新性に溢れていた時代だったか…沸々とイメージできます。
例えば、反儒。
それは曹一族(曹操曹丕、曹植)、孔融や王粲ら「建安七子」による自由奔放かつ精神に忠実な文章や詩歌に表現され、何晏らが基礎を築いた「玄学」(老荘思想による漢代儒教の新解釈)が「竹林の七賢」以後の精神性に多大な影響を与えたり…この辺は『蒼天航路』で上手に過激に描かれていますが、後世への影響も考えると無視できない観点ですね。
また、後漢末乱世の一翼を担った「太平道」「五斗米道」の隆盛は、士大夫層だけではなく民衆レベルでも儒教的価値観に変換が起こっていることを如実に示しています。
「太平道」「五斗米道」いずれも「道教」的要素の濃い集団でした。
さらに、「仏教」の存在。
『正史』ではほぼ表に出てきませんが、最近の小説(『曹操』(上下巻)陳舜臣著、『呉・三国志』伴野朗著)では「浮屠(仏教の別称)」などの名称で露出されています。
事実、1世紀には既に知識階層に熱狂的な仏教信者が存在していたというから、三国時代にも少なからず影響を与えていたはずです。
…勿論、儒教自体の影響力は全く無視できません。
なんといっても、『正史』の著者である陳寿自身が、蜀の正統派儒者・譙周の薫陶を受けた、儒教的価値観を強くもった史家であったから。
こんな感じでザーッと眺めただけでも、十分に多層的な三国時代の精神世界を垣間見られるかと思います。
読み手もいろいろ勉強しないと、「三国志」の泥沼に飲み込まれそう…大変ですね、こりゃ。

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[ 2004/01/31 23:58 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

あだなシリーズ2~馬良~ 

三国志の中でも、かなり有名ですね。
「馬氏の五常、白眉最もよし」の「白眉」こそ、誰あろう馬良、その人のあだなです。
由来は、以下の通り。
…三国時代、荊州馬氏に5人の兄弟があって、その5人ともがとってもよく出来た子でした。
5人の兄弟はみんな字に「常」がついていたので、馬氏を知る人々から「馬氏の五常」と称されていました。
「泣いて馬謖を斬る」で後世に名を残した馬謖(幼常)も、この5人兄弟のひとりです。
そんな5人兄弟の中でも、馬良(季常)がもっとも将来を嘱望された人物でした。
その馬良は、眉毛の中に白い毛が混じっていたので「白眉」と呼ばれた…ということです。
…ちなみに、なんで5人兄弟中馬良だけが「眉毛の中に白い毛」が混じっていたのか?
原因は明確にはわかりませんが、「白髪」の原因から考えてみるのも手かもしれません。
白髪の原因には
■遺伝
■加齢
■生活環境
■病気(慢性の胃腸疾患、マラリア、貧血症、甲状腺疾患などの影響)
■ストレス
などがあげられるそうです。
「兄弟でひとりだけ」「若い頃から」ってところに注目すると、「白眉」の原因は「病気」か「ストレス」ですね。
『正史』には、馬良が若い頃に苦学したなどとの記述がないので、ストレスも考えにくいから…多分病気でしょう。
しかも「若い頃から」も踏まえると、マラリアか貧血症あたりじゃないでしょうか?
あんまり朝とか強そうじゃない馬良の姿が見えてきましたね。
…「白眉」自体の考察はこの辺にして、馬良自身の経歴を見てみます。
実際、彼は36歳の若さで戦死するまで、「左将軍掾」(「左将軍」は劉備のことなので、劉備の秘書官的な存在でしょうか?)→「侍中」(帝位についた劉備の政権における秘書長)と重職を歴任し、主に劉備の側近として出世の階段を登っていきました。
さらに、外においても力量の片鱗を見せます。
東征に赴く際に異民族を説き伏せ、貴重な戦力を獲得することに成功したのです。
しかし、蜀政権で順調に出世を続ける馬良は、夷陵の戦いにおいて大混乱の最中に戦死してしまいます。
「これから」ってときに…「白眉」の本領を発揮する前に死んでしまったことは、本当に悔やまれます。
…そして、馬良が死んでから約1800年後、日本でも「白眉」が世間を騒がせました。
村山富市です。
悪い方向へ日本の舵を取った人物のひとりこそ村山富市である…と私は思っているので、このコトバを送ります。
「村山氏の11人きょうだい、白眉最もたち悪し」


[ 2004/01/25 22:36 ] 01:あだなシリーズ | TB(0) | CM(0)

ロリコン戦士・張飛 

昨日の続きです。
西暦200年、張飛が34歳のときに、13、4歳の夏侯覇の従妹を略奪したことを取り上げました。
その年齢差から、張飛はロリコンだった…と結論付けました。
しかし、別に張飛を非難するわけじゃないです。
人は、自分にないモノを欲するといいます。
戦乱の中、鮮血飛び交う戦場を縦横無尽に暴れまわる張飛。しかも、200年当時、張飛が夏侯一族の故地・沛国ショウ県に現れたということは、おそらく袁紹から劉辟の叛乱支援を任せられた劉備軍団の一員として、曹操の本拠地・許周辺を荒らしまわっていたときだと思われます。
半ば流浪の軍団と化していた劉備軍団、荒んだ男闘呼共の世界。
そんな中で、「たきぎ拾い」などという牧歌的雰囲気溢れる情景に浮かぶ、あどけなさの残るひとりの女性…夏侯覇の従妹。
心奪われる張飛の、ポカーンとした姿を思い浮かべることができませんか?
極めて男臭い中年の自分と、まったく相容れないかのようなあどけない女性。
表現下手な張飛がとった行動は、略奪。
しかし、その後、張飛と夏侯覇の従妹との間には少なくとも2人の娘が産まれ、そのどちらもが劉禅の皇后になったといいます。
出会いは奇縁でも、2人は何気に仲睦まじく暮らしていたのかもしれませんね。


[ 2004/01/21 00:00 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

曹操と張飛、実は親戚だった…という「新説」 

このタイトル自体は、訴求力ありますよね。
「え?マジで?」って感じです。
2004年1月14日付けで報道されたものです。
ただ、「新説」というより、元々『正史』に書いてあることなので、総じて情報を受け取った側は冷ややかというのもわからないではないです。
「新説」の根拠は、『正史』「夏侯淵伝」の一節より。
以下、抜粋。
「建安5年(200年)、当時夏侯覇の従妹の13、4の少女が、本籍地の郡に居住していたが、たきぎをとりに出かけて、張飛につかまった。張飛は彼女が良家の娘であると知ると、そのまま自分の妻とした」
つまり、張飛と夏侯覇の従妹は夫婦で、夏侯覇は夏侯淵の長男で、夏侯淵と曹操は元を辿れば同じく夏侯氏出身…という、気の遠くなるほどの縁戚関係で結ばれるというロジックです。
しかも、張飛と夏侯覇の従妹との間に産まれた娘が、劉禅の皇后にまでなったということなので、蜀と魏とは遠~い縁戚関係で繋がった王朝だともいえます。
ここまで来るとこじつけ的な要素が強すぎますね…事実は事実としても。
…というか、張飛の行動は拉致、監禁、誘拐、婦女暴行etc.何らかのコンボ、合わせ技になると思いますが、常人の行動ではないですね。
そして、誘拐事件発生が200年なので、張飛は当時34歳。
年齢的なダブルスコアを遥かに超える13、4歳の少女に手をつけるとは…張飛ロリコン説の方がインパクトあるんじゃないですか?


[ 2004/01/20 01:19 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(1)

魏延、弁明。 

justmanさんから魏延についてコメントいただいていたので、今回は魏延で。
勇猛、豪胆、剛直…魏延は、蜀建国以来数々の戦を潜り抜け、五虎将他の勇将が次々に亡くなった後の軍事を支えた武将です。
しかし惜しいかな、後世の評判は芳しくありません。
なんといっても諸葛亮亡き後の叛乱疑惑が、魏延最大の汚点と考えられているからです。
楊儀との確執の末、本人だけでなく三族(父母、兄弟、子孫とか、父母、兄弟、妻子とかそんな感じ)まで処刑されるという最悪の結果となりました。
…しかしです。
私は、魏延を弁護します。
これはあくまでも「叛乱疑惑」であって、魏延の心の中に蜀を裏切るなんて気持ちは欠片ほどもなかったと、私は考えます。
根拠は、自身の軍兵に見放された魏延がとった行動です。
楊儀との抗争に敗れ、絶望的な状況になってなお、彼は蜀(漢中)を目指しました。
決して、魏を目指すことはありませんでした。
こういった行動に結びついた魏延の心中は、彼の経歴を追うと明らかです。
…魏延抹殺から16年前、劉備は漢中王を名乗りました。
その直後、張飛が最有力と考えられていた最重要ポスト・漢中太守の座に魏延を大抜擢。
魏延の出世街道が、華々しく幕を開けました。
魏延にとっては、彼の立身出世の舞台となった蜀の国はであり、劉備につながる蜀漢・劉家の血は父でした。
どんな状況にあろうと、魏延が蜀を裏切る素地は、微塵もありません。
魏延にとって、ただ楊儀と馬が合わなさ過ぎたことが災難の元でした。
馬謖、費イ、魏延…貴重な人材ほどつまらないミスやいざこざで消えていく…魏延の死は、蜀にとってもまた災難だったに違いないですね。


[ 2004/01/18 02:32 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

タイトルを変えてみました 

BLOGをあれこれと覗いてみると、みなさんデザインにとても凝っていて…見よう見真似で、タイトルだけ何とか変更することに成功しました。
参考にしたのはjin2さんのBLOGです。
勝手にRESPECTします!
↓「craftsman's room」 by jin2さん
http://www.doblog.com/weblog/myblog/2261

[ 2004/01/12 00:16 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)

新説!曹操は××の生まれ変わりだった! 

『平話』を読み出しました。
…で、いきなり驚きの新説が!
なんと、曹操、劉備、孫権、献帝、伏皇后はそれぞれ秦末漢初に活躍した英雄たちの生まれ変わりだったのです。
 曹操=韓信
 劉備=彭越
 孫権=英布
 献帝=劉邦
 伏皇后=呂太后
といった面々。
曹操以下三国志の皇帝たちは、劉邦・呂太后に忙殺された「三雄」の生まれ変わりです。
三雄が生まれ変わって、劉邦・呂太后の生まれ変わりに仕返しをする…そんな因果応報爆裂な物語が、「三国志」であるというのです。
中国4千年の想像力に脱帽
これからもビックリ情報が盛り沢山な気配です。


[ 2004/01/11 20:47 ] その他雑談 | TB(0) | CM(4)

『三国志平話』二階堂善弘、中川諭訳注 

『三国志平話』(以下、『平話』)二階堂善弘、中川諭訳注/コーエー刊を購入しました。
『平話』は、前回お話した『正史』や『演義』と同様に、中国生まれの書物です。
巷間に溢れる『三国志』モノは、ほぼ『正史』や『演義』のいずれかをBASEにしている…と話しましたが、この『平話』は『演義』の元にもなったという曰く付きの書物。
まだ読む前なので詳しい内容は知りませんが…
●格調の高い歴史書『正史』
●『平話』から荒唐無稽な話を削り、『正史』に基づいてより史実に近づけた小説『演義』
●民間で語り継がれた通俗性の最も高い『平話』
…という位置づけのようです。
面白い内容などあったら、このBLOGでお伝えしますね。
また、既に『平話』を読んだことがある人は、コメントなどでそーっとお話してください。


[ 2004/01/10 23:23 ] 三国志BOOKS | TB(0) | CM(0)

『正史』と『演義』の違い 

わんこさんから『正史』と『演義』の区別についてコメントいただいたので…
今回は、『正史』って何?『演義』って何?についてお話します。
「三国志」と一口にいっても、著名な小説なら吉川英治の『三国志』から北方謙三版ハードボイルド『三国志』、漫画なら横山光輝『三国志』、『蒼天航路』、ゲームソフトはコーエー『三國志』シリーズetc.本当に沢山の「三国志」が私たちの身の回りにはありますよね。
しかし、普段「三国志」についてお話をするとき、また巷に溢れる「三国志」ものの小説、漫画、ゲームソフトなどなどは、ほぼ『正史』『演義』いずれかの中国生まれの書物をBASEとしています。
『正史』『演義』それぞれの特徴は、以下の通りです。
*************
=『正史』(『正史三国志』)=
著者:陳寿
製作年:290年前後
特徴:
●歴史家であり、また蜀の旧臣でもある陳寿(233~297年)が著す。
●三国時代終焉後10~20年後に書かれたもの。
●当初は私撰として著述され、後に中国の正史(歴史書)となった書物。
●歴史書という体裁上、魏呉蜀のうち「魏」を正統な政権とする。
=『演義』(『三国志演義』)=
著者:羅貫中
製作年:1300年代
特徴:
●元末明初の文学者である羅貫中が著す。
●三国時代終焉から約1000年後に書かれたもの。
●「中国四大奇書」のひとつである歴史小説。その内容は、「七分の史実・三分の虚構」と言われる。
●巷間に語り継がれていた様々な物語を取り入れており、魏呉蜀のうち「蜀」を正統な政権とする。
*************
ザックリと、『正史』は史実に基づいた歴史書で、『演義』は小説…と考えていただければOKです(あくまでも「敢えて言い切れば」ですが)。
何故『正史』と『演義』の区別が必要かといえば、2つの書物では記述内容に違いがあるからです。
頻繁に起こるのは、「『正史』にはそんなこと書いてないのに、『演義』には書いてある」という現象です。
1番有名なのは、「桃園結義」の記述。
『演義』のオープニングを飾る、華々しいシーンですよね。
「同年同月同日に生まれんことは得じとも、願わくは同年同月同日に死せん」ってね。
しかし、『正史』には『演義』ほど具体的な記述はありません。「桃園」で誓い合うシーンはありません。
巷間で作り出された演出を、羅貫中が小説『演義』に取り入れたものと言えます。
…と、このように『正史』と『演義』には様々な違いがあります。
「三国志」の話をしたり、「三国志」ものの書籍などに接するときは、混乱のないように『正史』のことなのか?『演義』のことなのか?に注意すると、もっともっと「三国志」の深みにズブズブとはまっていけるかと思います。

[ 2004/01/10 10:54 ] その他雑談 | TB(0) | CM(1)

「裏切り者」への報い 

前回の「裏切り者」麋芳、傅士仁の続きです。
『正史』著者の陳寿は、史家として、時空を超える「筆」の力で裏切り者に無限の報いを与えました。
報いの場は、『正史・蜀書』の最後に掲載する「季漢輔臣賛」。
もともと蜀臣・楊戯が著した書物ですが、内容は蜀に仕えた文官・武官を「賛(賞賛する文体)」というスタイルで簡潔に評するもの。
この「賛」の終わりに、麋芳、傅士仁他、荊州失陥に繋がる裏切り者も紹介されているのですが…彼らの名前だけは「官職」や「字」で記さず、「諱(名)」で記述しています。
例えば「諸葛亮」なら「諸葛丞相」、「関羽」なら「関雲長」と記述し敬意を表しているのですが、「麋芳」は「麋子方」と記さず、ただ「麋芳」とだけ記しているということです。
中国、少なくとも三国時代では、人を呼ぶときは「名」でなく「字」を使うのが礼儀…であったそうです。
つ・ま・り、「賛」という皮肉な舞台において、さらに敢えて礼儀に反する記述をすることで、麋芳、傅士仁らの裏切り行為を、簡潔にかつ最大限に侮辱しているということです。
これこそ、「筆」の力。
陳寿の『正史』における記述は簡潔過ぎて面白みがない…などの批判もあります。
しかし、私は彼の虚飾を廃した簡潔な文章に史家としての自負を感じるとともに、1字1字へのこだわりによって巧みな表現を編み出す文才にも敬意を表するのです。

[ 2004/01/07 23:22 ] その他雑談 | TB(0) | CM(3)

悪い奴ほどよく生きる 

私にとって「裏切り者」といって真っ先に思いつくのは、蜀の麋芳、傅士仁(『正史』では「傅士仁」とか「士仁」とか呼ばれていますが、ここでは「傅士仁」とします)の2人です。
侵攻してきた呉の呂蒙に対して次々に降伏し、荊州失陥の原因を作りました。
『演義』では、彼ら2人と、関羽を捕縛した呉の潘璋、そして潘璋の部下である馬忠は、みんな仇討ちをされる形で非業の死を遂げてしまいます。
読者としては、4人の死に対して心で喝采を叫んだり、胸がスーッとしたりするわけです。
…しかし、現実は小説のように上手くはいきません!
そう!「悪い奴ほどよく眠る」わけじゃないけど、「悪い奴ほどよく生きる」のが、この世の常。
そこで、荊州失陥後の軌跡が『正史』に記されている麋芳と潘璋について紹介します。
★麋芳…傅士仁を口説き落とした張本人・虞翻から、何度となく裏切り行為を冷やかされながら、少なくとも223年までは生きます。呉から魏に裏切った武将の討伐などに功を上げました。皮肉だけど。
★潘璋…『演義』では仇討ちされてしまう「夷陵の戦い」において、逆に大活躍。蜀将・馮習を斬るなどの手柄を上げます。その後も勲功を上げながら、蜀において張飛や諸葛亮も就任したことがある「右将軍」の高位にまで登ります。
…とまぁ、蜀ファンの人は何だかスッキリしないかもしれませんが、呉ファンの人には嬉しい「その後」かもしれませんね。

[ 2004/01/04 10:53 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

『正史三国志』1番最後の列伝は、誰だ? 

『正史』では、三国時代を駆け抜けた数多くの人物が「列伝」という形式で記述されています。
ホント沢山の人物が登場するんですが…1番最初と1番最後の列伝は、一体誰のものでしょう?
1番最初は大体想像できると思いますが…そうです、曹操です。
三国時代を形成する魏呉蜀のうち最大勢力であり、かつ後漢→魏→西晋という正統系政権のひとつである魏の建国に最も影響力のあった人物だから、当然と言えば当然。
それでは、1番最後は誰かというと…ジャジャン!華覈です!!
…?華…覈?あなた誰??
そもそも読めないし、漢字。
華覈は「かかく」と読み、呉末期の文官…という人です。
彼はとっても恵まれない、幸薄げな人だったようで、例えば…
★文庫にして約8Pにも及ぶ長ったらしい上表文を、ときの皇帝・孫皓に意気揚揚と上奏。にも関わらず、「孫皓はその意見を聞き入れなかった」という、たった16文字で片付けられる。
★めげない華覈。生涯を通じて、100以上にのぼる上表文を立て続けに上奏。しかし、「最後は“小さなこと”で譴責を受けて官を免ぜられ、それから数年ののちに死亡した」。
…嗚呼、哀愁でいと
血湧き肉踊る英雄叙事詩たる『正史三国志』の最後は、何だかちょっぴり物悲しく幕を閉じるのでした。

[ 2004/01/03 23:56 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

あだなシリーズ1~許褚~ 

新年だし、何か新しいことをしようかなぁと思い、「あだなシリーズ」とか作らせてもらいます。
記念すべき第1回は、許褚です。
のあだなといえば、「虎痴」ですね。
「虎痴」ってどういう意味かというと、「『』のような怪力をもっているけど、いつもはボーッとしている(『痴』)」という意味だそうです。
何だか愛くるしいあだなですね。
私のイメージでは、「許褚=武蔵丸」です。
長身(両者とも約190cm超)でデブ(許褚の腰周り約120cm。これは武蔵丸が圧勝?)、さらに怪力無双(叛乱を計画した者を打ち殺すほど)だけど、ボーッとした感じがソックリじゃないですか?
体格(身長200cm、腰周り115cm)と怪力具合だけならボブ・サップの方が許褚に近いかもしれませんが、ボーッとしてないから…ボブ・サップは。
…ちなみに、何で「許褚=曙」じゃないんだ?と疑問な人も100人に1人くらいいるかと思います。
それは、曙がボブ・サップとのグダグダな闘いの末、みっともなく敗れたからです。
曙ダウ~ン!のときの、あの脂肪の揺れを、私は反面教師として生きていきます。


[ 2004/01/02 23:35 ] 01:あだなシリーズ | TB(0) | CM(0)

正統派異端系 

あけましておめでとうございます!
年末年始出ずっぱりの「劇団ひとり」、ウケますね!
…さて1年の初めなので、初心に帰る意味も込めて、今回は「三国志」の原点に戻ってみようかと思います。
今日私たちが、「三国志」でドキ胸な状態になれるのも、『正史』の著者である陳寿(233~297年)のおかげです。
彼が筆を取らなければ、そもそも1800年も昔のことなんかマニアックな学者が知るのみの世界だったに違いありません。
そして、陳寿が著した『正史』に対して、様々な文書から関連記事をひっぱってきて「注」を加え、「三国志」の世界をグッと広め深めたのが裴松之(372~451年)です。
…と、ここまでは偉大なお二人の紹介だけです。
しかし、陳寿と裴松之が生きた時代背景を考えると、彼らが「三国志」に携わってくれたことの奇跡を、私は実感するのです。
キーワードは、「正統派異端系」。
後漢→魏→西晋という中国史の正統的系譜をメインとする『正史三国志』。
普通なら、正統系政権である「魏」に記述が偏重し過ぎる書物となりかねなく、そうすると現在のように「三国鼎立」の物語を愉しめなくなっていたかもしません。
しかし、中国4千年の歴史は、ひとつの奇跡を用意してくれました。
『正史』の著者・陳寿は、蜀生まれの蜀育ち。
彼が30歳のとき、仕官していた国である蜀が滅び、その後西晋に使え『正史』を著述したという経緯をもちます。
陳寿は、異端的系譜を母とするマイナー人物だったのです。
さらに、裴松之は「南北朝時代」という分裂時代に生き、南朝・宋に仕えた人物。
中国の覇権争いのメイン舞台である「中原」を領有とした北朝に対して、南朝は主に長江沿いを領有とする異端系政権でした。
そして長江沿いは、三国時代では呉・蜀政権があった故地。
しかも!南朝・宋は皇帝が「劉」姓を名乗る王朝でした。「劉」つながりといえば、そう!「蜀」と同じです。
…長々となりましたが、何が言いたいかというと、陳寿、裴松之が異端系政権である呉・蜀にゆかりのある人物だったおかげで、正統系政権である魏との三国のバランスが保たれ、まさに「三国志」の物語が形成されたんだ!ということです。
「三国志」の面白さは、三国時代当時の綺羅星のような英雄たちの活躍だけでなく、そういった英雄たちの活躍を著述として残した陳寿、裴松之といった正統派異端系の人物のおかげと言えますね。

[ 2004/01/01 21:29 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)
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