随分更新が遅れましたが、こんばんは。
前回のBLOGの中でチラッと書きましたが、「劉禅暗愚説」に異論(…というか、別観点)を提示してみたいと思います。
たしかに、蜀皇帝在位40年間で劉禅自身が成した事柄は、ほぼ皆無です。
そして何も成さないまま魏による侵攻を受け、あっけなく降伏。
劉備以下の英傑たちが建国した「蜀」という国家を、劉禅は簡単に手放してしまいました。
そんなこんなで後世でも、例えば「阿斗」といえば暗愚の象徴…とまで言われるようになってしまっています。
…しかし、ちょっと考えてみたいです。
劉禅は本当に暗愚だったのか?劉禅は暗愚と捉えるだけで事足りる人物だったのか?…と。
まがりなりにも、この上なくビミョーな均衡状態のうえに成り立っていた三国時代で、最弱小国家・蜀に40年間に亘って君臨し続け、存続させえた技量やその存在意義をどう判断しますか?
劉禅自身は何ひとつ成しえることもできない、いわば「デキない」人物だったとしても、他の優秀な人材を包容できる「器」だったと捉えるとどうでしょう?
しかも、「器」は「器」でも、蜀という国家が滅するそのときまで、遂に底の知れなかった未知数の「大器」だったとすると…。
「
無能」な彼はその在位中に、“不世出の名宰相”諸葛亮、“内政のプロフェッショナル”蒋琬、費禕、董允…と稀にみる優秀な家臣に恵まれました。
彼らは劉禅という「器」の中で存分に腕を振るい、蜀の隆盛を支え続けました。
そして、如何に優秀な家臣たちも、決して劉禅という「大器」から溢れることはありませんでした。
重臣や皇族の叛乱や逃亡(亡命)が相次いだ魏・呉と比べても、劉禅という「大器」の底の知れなさを実感します。
しかし、董允死後、著しい人材の枯渇により蜀を支えるに足る家臣が存在しなったとき、「器」であるだけの劉禅が国家を具体的に指導することは望むべくもありませんでした。
さらに、劉禅という「器」の中には、宦官・黄皓など矮小な家臣がお構いなく入ってきて、幅をきかせるようになりました。
ただの「器」にすぎない劉禅は彼らを拒むことなく、諸葛亮等と同様に受け入れ…やがて国家を失うこととなります。
…劉禅という人物を計るとき「暗愚」とか「優秀」とか、そんな尺度は関係ないんです。
私としては、劉禅の個人的能力を超越して、その「器」っぷりを評価したいです。
そのことによって蜀という国家の限界性、国家の盛衰やその背景なんかがより見えてくるように思います。