三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

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盛り塩 

昨日、『歴史の使い方』(堺屋太一著/講談社刊)を読んでいたら三国時代に由来する話が出てきたので、パクッて紹介します。

「盛り塩」の由来です。
水商売の店先なんかで見られるアレです。
この「盛り塩」のルーツは、三国志に関係があったのです。
それは、司馬懿の孫であり、晋初代皇帝の司馬炎にまつわる物語…。
彼は当代随一レベルの「女たらし」で、例えば呉を滅ぼした際に真っ先にやったことが国中の美女を集めるという「大事業」だったくらい。
スケベキング・司馬炎は、ピーク時で1万人ほどの美女を後宮に囲い込んでいたそうです。
…1万人もの大人数の美女を囲い込んでいたら問題になるのは、夜のお相手を誰にするのか?…ですよね。
自分だけの美女は1万人いても、体はひとつなので…人間である限り対応はムリです。
面倒くさがりチャンピオン・司馬炎は、次第に1万人の中から毎夜のお相手を選ぶことすらウザく思えてきます。
そこで考えたのは、羊に車を引かせて、その羊が止まった部屋の美女を訪ねる!…というアホな方法。
司馬炎は適当なことをやっているのですが、一方後宮の美女にとっては一大事です。
なにせ、皇帝・司馬炎の寵愛は、すなわち自らの地位を高めることに繋がり、より贅沢で満たされた生活が約束されることになるから。
さらに、運良く子どもを授かりでもすれば、その地位の安定をより強固なものとできます。
「あのスケベ(司馬炎)が自分の部屋に来てくれるかどうかは、羊が握っている!」
羊が自分の部屋の前で止まってくれるように、美女たちは競って門口に笹をさし、塩を盛りました。
笹も塩も羊の好物(…だそう)で、羊は立ち止まって笹をムシャムシャ、塩をペロペロ…羊自身は美女たちの用意した好物にメロメロなだけなのに、立ち止まった羊を見た司馬炎は「羊がこの部屋の前に止まったから、今晩はこの部屋の美女を相手にするか」という風に夜伽の相手を決定したとのこと。
後宮の美女が自分の元に皇帝・司馬炎の足を運ばせるため始めた「盛り塩」。
いつしか日本にも伝わり、女性が男性を接客する「水商売」を中心に「盛り塩」が浸透したということです。

…以上が「盛り塩」のルーツに関わる喜劇的物語。
羊は本当に塩が好きなのか?…などナゾも残りますが…こんなところにも三国志って感じです。

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[ 2004/04/30 08:26 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

オレ流・董卓の経済学 

第2回目は、董卓の「オレ流・経済学」です。
皇帝廃立、洛陽消失、人士虐殺etc.様々な面で「オレ流」な破壊王っぷりを見せつけてくれる董卓。
そんな「オレ流」なやり方は、勿論国家の根幹である経済にも及びます。
経済と一口でいっても幅広いので…とくに当時の日常生活、習俗に与えた影響力、さらに歴史的な影響力を考えたときに特筆すべきな、董卓による「貨幣経済の崩壊」を取り上げます。
古代中国には、前漢時代から約300年間に亘って培われた「五銖銭」による貨幣経済が(安定感は欠けるものの…)確立されていました。
しかし、董卓はこの五銖銭による貨幣経済を、ほぼ一個人の判断で、瞬く間に崩壊させてしまったのです。
原因は、五銖銭の濫造による超絶なインフレ、貨幣への「信用」失墜。結果として、貨幣の利用価値が限りなく「0」に近づいたため、誰も使わなくなってしまった…ということです。
董卓による五銖銭濫造の様子は、『正史』にもかなりリアルな記述があります。

(董卓は)五銖銭をつぶして、あらためて小銭を鋳造したが、大きさは五分、模様はなく、穴はあいておらず、まわりに線をつけることもせず、やすりをかけて磨くこともなかった。その結果、貨幣価値は暴落し物価は上昇して、穀物一石が数十万銭にも及んだ。これ以後、貨銭は流通しなくなったのである。
(『魏書』「董卓伝」)


董卓がこのような悪行に手をつけたのは、なぜか?
第一に考えられるのは、後漢朝財政の末期的な状況。
地方豪族の伸張、土地を捨てて流亡する民衆の増加などなどに起因する国家税収の減少、黄巾の乱前後から続く莫大な戦費、一部特権階級の奢侈乱費etc.破綻寸前(…それとも破綻済み?)の国家財政。
独裁的な権力を握った董卓の目の前には、そのような旨みも何もない惨憺たる状況が用意されていました。
絶望的な財政状況を打破するため、董卓は手っ取り早くかつ効果的に思えてしまう方法をとりました。
すなわち、「カネがないなら、作ってしまえ!!」。
…結果は、前述通り…董卓の決断は裏目に出て貨幣価値は大暴落…貨幣経済は崩壊、ご臨終。
第二に考えられるのは、董卓自身の経済感覚のなさ。
董卓は「軍人」です。
彼の軍人としての成功要因は、任侠で培った涼州近辺の人脈と、とくに異民族対策に効果を発揮する軍略。
董卓の中の経済的な素養は、皆無に近かったのではないでしょうか?
董卓の貨幣濫造は、それこそ「ゼニのなかなら作ってしまえばよか!何が悪かとか?」(董卓は辺境の涼州出身なので、多分方言的にはこんな感じだったのかなぁ)くらいの認識だったように思えます。

いずれにしろ、董卓は一国の経済を一時的に崩壊させました。
この貨幣経済の一時的な崩壊は、その後の三国時代にも影響力をもちます。
魏呉蜀の各国は、政策の一環として独自の貨幣経済復興策を講じていました。
中でも良質な銅を多く産出できた蜀は、三国の中ではより安定した貨幣の鋳造が行われていたようです。
弱小国家でありながら数十年間独立を保ち得たその背景には、貨幣経済の相対的な安定というのもあったようです。
もしも後漢以降も全国均一的な貨幣経済が続いていたら、董卓が貨幣経済を崩壊に導いていなかったら…経済的な三国鼎立は、望めなかったのではないか?三国時代はもっと違う形で現出されたのではないか?と思ってしまいます。

[ 2004/04/29 09:24 ] 02:オレ流・董卓 | TB(0) | CM(0)

オレ流・董卓の権力掌握法 

いきなりですが、様々な「オレ流」が目立って理解しにくい董卓について、個人的に疑問に思っていたことや、私なりの解釈などなど…順不同ですが、これから数回に亘って書いてみたいと思います。

まず1回目は、「何故、董卓は短期間で権力を握ることができたか?」について。

…董卓上洛の背景には、当時の大将軍・何進と宦官による宮廷抗争劇がありました。
宦官制圧のために、何進は各地の豪族らに協力を呼びかけ、そのひとりに涼州の雄・董卓も含まれていました。
董卓は何進の呼びかけに応じましたが、上洛の途上、抗争の中心人物である何進が宦官により暗殺され、国都・洛陽では血で血を洗う何進派による宦官大虐殺が展開されます。
国都大混乱の中、宮中を脱した皇帝(少帝:何進の妹の子)を保護したのが、偶然にも洛陽入りする直前の董卓でした。
皇帝を手中にできた、この幸運こそが董卓の権威を一気に高めることになった…というのも、権力を短期間に掌握できた原因のひとつにはなるでしょう。

…が、今回は「軍事力」にフォーカスして考えます。

上記のような未曾有の大混乱を収拾するには、政治力以上に有無を言わせぬ「強大な軍事力」の行使が手っ取り早い手段でした。
しかし当時、洛陽に到達した董卓の軍勢は総勢3,000人。
「たった3,000人かよ!?」…って感じじゃないですか?
例えば、衛茲という人物からの家財提供を受けて、189年に曹操が決起した際の兵数ですら5,000人いたことと比較すると、当初董卓軍の規模が大したものでなかったことは一目瞭然かと思います(勿論、兵の「質」は別問題です)。
だって、ひとりの資産家による援助に及ばない規模なのですから。
上洛して皇帝を手中にしたはいいが、全くの弱小勢力である董卓。
これでは、折角手にしたイニシアティヴを守ることすらおぼつきません。
そこで董卓が打った手は、「子供騙し」と「大博打」によるコンボ。
「子供騙し」とは、持ち駒のすべてである3,000人の兵士を少しでも多く見せるため、夜になると城門から兵士をコソコソと外に出し、日中に軍鼓を鳴らして入城させることをくり返したこと。
かなりセコイ戦術ですが…これにより董卓軍は大軍勢であるという幻想を、人々に抱かせることができました。
その隙に、「董卓軍は大軍である」という幻想を現実のものとするため、「子供騙し」とは別の「大博打」を大胆に打ちます。
主を失った元大将軍・何進とその弟・何苗の軍隊をそっくり吸収。
非常職である「大将軍」の軍隊だけでなく、さらに、宮中警護を司る「執金吾」という地位にあった丁原を暗殺し、その軍隊(「近衛兵」に近い軍隊)をも吸収。
丁原暗殺には、丁原の懐刀であった呂布に裏切らせるという荒技も駆使しました。
…以上のような、「子供騙し」と「大博打」の合わせ技により、大規模な軍隊を短期間に掌握した董卓は、皇帝を傍らにして、何者も寄せつけないような権力の中枢に登りつめることになりました。
董卓の勝因は、単純にお膳立てされていた「権力の空白」に便乗したというだけでなく、恐ろしく短期間で完遂した「軍事権の掌握」とその「決断力」にあったといえます。

…ただ、急速な軍事力の膨張は、それを支える糧食などの供給源のない董卓にとってとてつもない負担になったことも確か。
董卓が権力の中枢にあった期間、際限なくくり返された資産没収、金品略奪、陵墓荒らしetc.は、軍事力掌握を続けるために避けることができない行為だったのかもしれません。

[ 2004/04/18 23:43 ] 02:オレ流・董卓 | TB(0) | CM(0)

横山光輝氏、死去 

つい最近伴野朗氏死去の報道に驚いたのですが…
今度はナント横山光輝氏が、死去。
はっきり言って、日本全国の三国志ファンにとっては驚天動地の事件!だと思います。
死因は、寝煙草の不始末による大火傷とのこと。
なんとも残念で仕方がありません。
私が『三国志』にはまりこんだのは、勿論横山光輝『三国志』全60巻の薫陶によるものです。
のめりこみました、半端なく。
高校生くらいだった当時の私は、お金がなかったので60巻を立ち読みで読破しようと試みました。
結果は、店員にドロップキックを見舞われ諦めざるを得なくなったのですが…それでも、少ない小遣いを漫画購入に注ぎ込んでいた記憶があります。
書きたいこと、想い出は山ほどありますが…今は、ご冥福をお祈りするのみです。

↓報道の内容はコチラ。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jinji/news/20040416k0000m040127000c.html


[ 2004/04/16 00:18 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)

あだなシリーズ3~賊の頭目たち~ 

前回に続き、「賊」のお話をもう少し。
「賊」の種類を数えあげたことがないので実数は不明ですが…『正史』にはホントに多くの「賊」が登場します。
前回の「黒山の賊」や、歴史の教科書にも出てくる「黄巾賊」、長江や黄河などに巣食う「河賊」etc.…大小様々多種多様。
そんな「賊」たちは必ず頭目(親分)を戴き、頭目の元で手をつけられないほどヤンチャし放題でした。
今回はこの「頭目」に、注目。
頭目の名前が、面白いんです。
頭目といっても、元は出自素性の全く知れない市井のワルモノ。
勝手気ままに「あだ名」をつけて、誇称していたのです。
…そういえば、私の友だちにもいました。
本名は「今村」のはずなのに「アイリス」、「江口」のはずが「ロンサム」とそれぞれ名乗って、自慢のバイクや原付に跨っていた奴等が…。
それはそうと、例えば「黒山の賊」頭目・張燕の別名は「張飛燕」。
スッゴクすばしっこかったから、「飛燕」だそうです。
他にも、目がメチャクチャデカかったから「李大目」(袁紹により撃破され行方不明)。
左アゴの髭(ヒゲ)がやけに長くて目立ったから「左髭丈八」(袁紹により斬殺)…などなど。
無辜の民にとっては迷惑千万だったに違いない賊どもの、何だか愛らしい一面も見えてきませんか?

[ 2004/04/11 20:57 ] 01:あだなシリーズ | TB(0) | CM(0)

ワルモノどもが夢の跡 

三国志は、主に豪族(曹操、袁紹など)や地方の有力者(劉備、孫堅など)が主人公となった物語です。
しかし、物語のココカシコで素性の知れない者や、立身出世を狙う無頼の徒らが蠢いており、そんな一面が、また三国志の世界を深く面白くしているとも思っています。
例えば、「黒山の賊」。
彼らは頭目に張燕を戴き、ピーク時ではなんと100万にも及ぶ人間で構成されていたそうです。
各地で豪族が群雄割拠していた三国志前半の時代では、まさに一大勢力です。
宋末期の「梁山泊」を髣髴とさせます。
これほどの大勢力となった「黒山の賊」は、当然周辺の有力豪族にも多大な影響力を与えました。
公孫瓚と袁紹が冀州を巡って激しく衝突していた頃、公孫瓚は「黒山の賊」と手を結び、袁紹に当たっていました。
対して、袁紹は流浪の将軍・呂布と手を結び、目の上のタンコブである「黒山の賊」を攻撃しました。
「賊」を巡って周辺豪族がキリキリ舞いされる状態は、いまだ「黄巾の乱」の余燼がくすぶる時代性を臭わせてくれます。
…しかし、我が世を謳歌していた各地の「賊」も次第に豪族に鎮圧、吸収されていきます。
「黒山の賊」も然りで、205年曹操に降伏。
素性の知れない無頼どもの頭目・張燕は、「侯」に列せられます。
曹操に吸収された後、「黒山の賊」だった人々は、「青州黄巾賊」のように精鋭軍団に編入された人もいたでしょうし、平時のように農業に従事する人もいたでしょう、任侠の徒になった人もいたかもしれません…。
嗚呼、「ワルモノどもが夢の跡」。

[ 2004/04/10 10:17 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

方言三国志 

最近、更新が週1ペースくらいに落ちてしまっており…面目ないです。
今回は、BLOGを見てくれているみなさんに情報を求めます。
聞きたいのは…三国時代、「方言」の問題ってどのように解消されていたのか?…ということです。
例えば劉備の場合。
幽州出身の彼は、中原をるろうした末に、荊州を経て、益州でその激動の人生を閉じました。
その行動範囲は中国全土に及ばんとするほどですが…一体、各地で地元人士とのコミュニケーションはどうやってとっていたのでしょうか?
中国という国は、国土の大きさと比例してか、各地の方言がとっても激しいです。
私が中国を旅行したときの経験ですが、例えば「日本人」を表す中国語の発音ひとつでも地域差が激しかったです。
標準語(中国東北部の発音がBASE)で発音したら「リーベンレン」なのですが、雲南省あたりでは「ズーベンゼン」のようにズーズー弁になってしまいます。
あくまでも一例ですが、上記以外にも下手したら別言語(標準語と広東語の違いなど)くらいの発音上の相違があったりもします…しかも現代においても。
「政治」には「言葉」が不可欠。
幽州出身の劉備の発音は、益州の人士に果たしてスムーズに伝わっていたのでしょうか?
それとも、通訳がいたのでしょうか?
…この辺の情報をおもちのかたは、是非お知らせください。
嗚呼、知りたい。

[ 2004/04/04 22:18 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)
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