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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

採用面接と三国志 

土曜日、私は会社の「新卒採用面接」に駆り出されました。
1グループあたり6人程度の初々しい大学生。
つい数年前は、自分自身がその初々しい大学生のはずだったのに…ヨゴレチマッタ。
面接方式は、グループディスカッション。
目の前で40分程度、ひとつのテーマについて論じてもらって、それを受けて選考するというものです。
私が選考官に相応しいとは思えないんですが…まがりなりにも採用面接なんかをやらせてもらうと、「採用」というものの難しさをつくづく感じます。
採用の際はコア要件、NG要件というものがあって…
 ★論理的思考力
 ★コミュニケーション力
 ★誠実さ
…など、採用にあたっての必須要件が設定されています。
どれかひとつでも「欠如している」と判断されると、採用されないという最低基準です。
勿論この辺の能力が平均的、平均以上に備わっているにこしたことはないと思うんですが、たまに
「論理的思考力は抜群にスゲェ!まじビビる!!…でも、他人と上手くやっていけるんだろうか…」
という学生さんもいたりします。
選考官はどう判断すべきなのか?
そんなとき、私はやはり、つい、三国志の世界に置き換えて考えてしまいます。
賈詡、郭嘉、程昱…他人と上手くやっていくということが微塵も念頭になかった風な彼らは、現代では「コミュニケーション力」が欠如した人材とも捉えられます。
とくに手段を選ばない傾向が顕著だった策士・賈詡にいたっては、「誠実さ」も疑問です。
ただ、「論理的思考力」や企画実行力などなどに関して、当代随一の才能をもっていたことは周知の事実です。
また、許褚や張飛の「新人時代」なんて、「論理的思考力」の欠片もなかったに違いありません…怪力馬鹿のほぼ一芸採用状態です。
そもそも人間は化けますし(驚くべき成長を見せますし)、一定の尺度では図れない人材もゴロゴロいます。
採用基準というのは、会社の成長性に大きな影響を与えるだけに…とっても難しいものですね…ふぅ。
最後に付け加えますが…採用基準の設定自体には、確かに悩ましい部分があります。
でも、会社の選考基準に沿った形で行った私の選考には、自信をもっていますよ。

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[ 2004/05/30 12:46 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

20,000アクセス記念品公開 

遅くなってしまいましたが…
見事20,000アクセス目をHITしていただいたshinさんへの記念品を公開します。
記念品は、2つです。

★劉備3兄弟+諸葛亮の泥人形(4体)
劉備、関羽、張飛、諸葛亮といった、蜀の4英傑を模した小さな泥人形です。
1998年に三国志の旅をした際に購入しました。
たしか、成都にある武侯祠で購入したものだったと思います。
泥人形は、中国の伝統工芸品のひとつです。
庶民的な暖かさがあり、とってもかわいらしい表情をしています。
とくに張飛の悪ガキっぽい憎めない表情が、GOOD。


★『三國志旅行ガイド』光栄出版部編
1996年刊行というとんでもなく古い本ですが…
1998年に荊州、益州、漢中、五丈原…と旅行したときに参考にした本です。
イラストのタッチの古臭さが、とっても泣かせます。
情報は古いですが、三国志ゆかりの観光地紹介だけでなくカンタンな旅行の技術とかも書いてあって…個人旅行初心者のかたにも、また旅行に出ず旅に思いを馳せるためだけにもピッタリだと思います。

以上2点、お気に召してもらえれば、これ幸い。
次回30,000アクセスでも同じくプレゼント企画を行いますので、よろしくです。


[ 2004/05/29 08:10 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)

祝20,000アクセス突破! 

このBLOGを公開後約5か月目にして、20,000アクセスに到達することができました。
みなさんのおかげです!
これを機に何か変わるわけでもないのですが…やっぱり節目節目は大切にしたいですね。
スモール・ステップです。
さて、記念すべき20,000回目にアクセスしてくれたのは…
ジャジャン!shinさんです!
おめでとうございま~す!!
手を上げてくれたshinさんには、三国志にちなんだ「記念品」をお届けしますね。
「記念品」は、shinさんの手元に届いた後くらいにBLOGでもお披露目します。
大したものじゃなかったらゴメンナサイ。



[ 2004/05/23 01:08 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)

超絶テクニシャン・左慈 

今回は、左慈のお話。
ちょっと18禁な内容があったりするかもですが…お子さまは読んじゃダメよ(ウソです)。

左慈、字を元放。
廬江出身で、多くの書物では「仙人」のように描かれている人です。
『演義』では、曹操の元にぷらっと現れては様々な幻術を見せつけ、曹操を怒らせたり、人々を大いに驚かせたりする、かなりユニークなキャラ。
蘇州近くの池でしか釣れない魚(「松江の鱸」と呼ばれる淡水魚。現在、福岡県の筑後川で危急種に指定されている「ヤマノカミ」という魚らしい。天下の美味とのこと)を、魏の役人の家の庭から釣り上げてみたり、虐殺された羊を全頭蘇生させたり、全く同じ顔の数百人の左慈が現れたり…終いには、曹操の死を予言し鶴に乗って何処かへ消えてしまいます。
左慈の幻術に散々振り回された曹操は、おかげで、病の床についてしまうという有様で…なんだか可哀想なくらいです。
一方、『正史』や『後漢書』を紐解くと、『演義』とは別の顔も左慈は覗かせてくれます。
別の顔…それは、「房中術」のプロフェッショナルとしての顔。
「房中術」とは、SEXによって健康増進と長生を図ることを目的とする「道術(『仙術』など表現は様々)」の修行法のひとつ。
左慈は「房中術」に恐ろしく精通していたおかげで、メチャクチャ長生きしたそうです。
左慈はその「房中術」のスゴさによって世に知られ、曹操自身度々彼を宮城に招いていました。
左慈が宮城に現れると、多くの人が争って左慈を訪問し「房中術」を習うという盛況振り。
訪れた人の中には宦官も含まれていたそうで…「元々アソコを切り落とした宦官には無縁のワザなのにねぇ」と、人々の笑い種になったことも伝えられています。
「房中術」を学ぼうとする人には、もちろん「『修行』を通して健康増進を図りたい!」と殊勝なことを考えている人もいたでしょうが…おそらくほとんどの人にとっては「『房中術』を通して「性のテクニック」を身につけたい!」というのが本心だったのではないでしょうか?
男性がイってしまうことなしに何度もSEXができるワザだとか…詳しくは知りませんが、あんなことも!こんなことも!な感じ(だった)らしいですよ、「房中術」は。
そんな「房中術」の講習風景をイメージすると、何だか異様でもありますね。
おじいちゃん1人と多数の髭面のおっさんが向き合っていて、時々「性のテクニック」をくんずほぐれつ模擬演習したり、それを真剣にメモとったり…んー…。
…ということで、「仙人」なイメージが強い左慈の意外な顔。
きっと年齢を重ねた左慈の顔自体も、年齢に見合わずツヤッツヤッしていたに違いない…と、少なくとも私自身がもつ左慈のイメージは、「房中術」のエピソードで変わりました。

[ 2004/05/22 08:33 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

魏呉蜀の姻戚連鎖 

樹形図シリーズ第2弾。
血で血を洗う戦いをくり広げた魏呉蜀三国。
曹氏、孫氏、劉氏の軋轢は余程深く…各氏さぞや仲が悪かったんだろうなぁ…と思ってしまいますが、意外や意外。
曹・・劉の3氏は、遠近の差こそありますが一応姻戚関係で結ばれちゃっています。
しかも姻戚関係が連鎖反応を起こし、3氏が徐々に「一つの輪」で結ばれていくという奇妙な状況すら呈しているのです。
政略結婚は、政治、とくに外交のための重要な手段。
この事実は、三国志が単なる「英雄譚」に終わらず、手段を選ばないマキャベリズムに通ずる非情な「政治」の物語でもあることを如実に示していると考えます。
添付したような3氏に関わる姻戚関係は簡略化したものなので、もっと深掘りすると複雑な姻戚関係が顔を出すでしょうし、またそこから新たな事実や仮説が芽を出すかもしれません…。
機会があれば、また樹形図シリーズで追跡報告を。


[ 2004/05/18 03:10 ] 樹形図で見る三国志 | TB(0) | CM(0)

華佗=ペルシア人説 

今日は、何だか1日テレビをボヤーッと眺めていました。
無気力症候群な1日でした。
久々にたくさんのテレビ番組を観ましたが…その中でも、ある美容整形外科(?)の違法性について取材をしていたジャーナリスト・鳥越さんの番組に目を惹かれました。
二重まぶたの手術をしたら、皮膚内に糸が残ったり、目が開かなくなるほど腫れたり…観てて気分悪くなるほどでした。
その違法美容整形外科について、折角だからNETで調べていったら…知らぬ間に、三国時代の「神医」「ゴッドハンド」とも言うべき華佗についての調べものに変わってしまいました。
いろいろ情報が転がっているものですね、華佗。
様々な伝説に彩られた華佗ですが…どうも彼、漢民族じゃないかもらしいですね。
ペルシア人だって。
根拠としては…
★「華佗」という名前の「音」に注目すると、中世ペルシア語の「xwaday」、つまり「先生」の意味になるそう。
★彼が世界で始めて使った「麻沸散」という麻酔薬を根拠とする説も。
当時の中国に自生する「麻」には、大麻の主成分であるテトラヒドロカンナビノールが含まれていなかったらしい。
いわゆる神経系に影響を与えることのできる「大麻」は、インド他原産のもので西方貿易にて入手可能なものだったようです。
華佗自身がペルシア人であれば、シルクロード貿易に個人単位で関わることも可能だったのではないか?というものです。
…事実関係は、すでに約2,000年経った現代では知りようもありません。
ただ、華佗という一人物にも、限られた情報からココまで想像力を使って膨らますことができるなんて…それだけでも幸せだったりします。




[ 2004/05/16 19:32 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

もうすぐ20,000アクセスいきそうです。 

前回10,000件達成のときは、結局どなたからも連絡がなく…なんだか寂しい感じでしたが、またまた近づいてきました20,000アクセス。
へこたれませんよ、あれくらい。
丁度20,000件目のかたは、コメント記入やメール送信でお知らせください。
三国志にちなんだプレゼントをご用意します!
奮って手を上げてくださいね。


[ 2004/05/09 01:23 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)

オレ流・董卓だって涙が出ちゃう…男の子だもん 

さて「オレ流・董卓」シリーズ第3回目です。
董卓といえば、ワルモノの代名詞のように語られることが多いですね。
とくに『演義』では、三国志導入部分での最大の悪玉ですし。
でも、「董卓=悪玉」と語られれば語られるほど、ホントに「董卓=悪玉」とだけで語っていいのか?という疑問が湧いてくるのです。
先天的に「悪」な人はいないと思うので…(「性善説」ですよ、やっぱり人間は)。
そこで『正史』や『後漢書』を紐解いてみると…「反董卓連合の旗揚げ(190年1月)」以降に、董卓の傍若無人っぷりが極めて目立ってくることがわかります。
年表的に簡単に記してみると…

189年8月 董卓入洛後、皇帝廃立
189年8月以降 次々と清流系の名士を抜擢
189年11月頃 董卓の母を封じて池陽君とする
190年1月 反董卓連合旗揚げ
-------
190年同月 先帝・劉弁毒殺
190年2月 長安遷都強行
190年2月以降 董卓一族を悉く朝廷の高官に任ずる
190年6月 五銖銭を廃して「董卓小銭(悪銭)」を鋳る


董卓は、皇帝廃立というとんでもないことをしでかしはしたのですが…一方、宦官に虐げられていた清流系の名士を積極的に登用したりと、政治家として彼なりの理想像の“真似事”をしようとしていた形跡が見られます。
また、このときはまだ、母親を封じた以外には、一族や近臣を高位に就けるという馬鹿な真似は行っていません。
儒教によって思想武装した清流系名士を抜擢することは即ち儒教世界への迎合であり、母親を封じたことも儒教的な「孝」の体現を意味していたと思えますし…董卓は董卓なりに少しは自分の気持ちを抑えつつ、儒教世界における当時の政治の中枢で、なんとか支持を得られるよう配慮をしていたのがわかります。
決して入洛当初から傍若無人に振舞ってばかりいたわけではなかったのです。

しかし!そんな董卓の姿勢を一気に崩してしまったのが、「反董卓連合の旗揚げ」でした。

董卓にとって何が衝撃だったのかというと…自分が信頼した人物からの相次ぐ「裏切り」。
「反董卓連合」に参加した韓馥、劉岱、張障・轤ヘ、董卓が抜擢した周藷カ、伍瓊らが推挙した人物。
さらに、董卓自身が信頼して抜擢した周藷カ、伍瓊すらも袁紹に内通しているという有様…。
入洛以前にはほとんど董卓が経験しなかったであろう、信頼した人物から次々に裏切られるという仕打ち。
しかも、董卓自身は良かれと思って行っていたことだっただけに…裏切られた理由も結局わからず終いだったに違いないです。
裏切りの理由がわからないこと、“真似事”的な政治以外の政治手法もわからないことなどと相まって、信頼した人物からの「裏切り」という衝撃は、董卓の疑心暗鬼や、独断専行的性癖を先鋭にしていきます。
先帝殺害、長安遷都、悪銭流通…といった悪行の数々は、もはや清流系名士の諫めに耳を傾けなくなった董卓の独断専行の現れ。
また、一族を悉く高官に就けたことは、信頼した人物からの「裏切り」がトラウマとなっていることを表現しています。

こう見てみると、「悪逆非道の暴君」「巨悪」とも例えられる董卓という1人の人間への哀れみのような感情が芽生えてもきます。
董卓自身、信頼した人物から次々と裏切られたときはきっと枕を涙で濡らしたことでしょう…。
最後に、裏切りに対する董卓の哀し気な心底からの声を、『正史』より引用します。

君たちがすぐれた人物を抜擢・起用すべしと進言したから、わしは君たちの意見に従い、天下の人々の心に背くまいと思ったのだ。それなのに君たちが起用した人間は、任地に赴くや、すぐさま引き返してわしを滅ぼそうとしている。わしはなんで裏切られなければならないのだ。
(『蜀書』「許靖伝」)


[ 2004/05/08 12:03 ] 02:オレ流・董卓 | TB(0) | CM(0)

劉表の荊州政権と諸葛亮の関係 

三国時代に限ることじゃないですが…何かの事実・事件、その事実・事件の背景などを考察するとき、中国の歴史では「血縁関係」が重要なファクターとなることが多いように思います。
そこで、みなさんに少しでも「Oops!」と思ってもらえるような意外な血縁関係をクローズアップして、樹形図で表現してみたりするシリーズを用意しました。

第1回目は、「劉表の荊州政権」と「諸葛亮」の意外な関係。
「三顧の礼」以前の諸葛亮のイメージは…桃源郷を彷彿とさせるような隆中に住まい…晴耕雨読の生活ですっかり浮世を離れたような隠遁者…そんな感じでしょうか?
しかし、このイメージは三国時代以後に流行した道教的なオブラートに包まれたちょっと脚色された諸葛亮のイメージに思えます。
事実、「三顧の礼」以前の諸葛亮は、姻戚関係によって当時の荊州政権の中心人物だった劉表や蔡瑁らとコネクションをもっていたのです(劉表との関係は、現代日本の『民法』に照らすと、正確には「親族」といえないみたいです。ただし、蔡瑁とは3親等の姻族ということで立派な「親族」です)。
諸葛亮は、その青年期を俗世間と距離を置いて過ごしていたわけではなく、逆に中原の混乱も影響して人材の流入が激しかった荊州において、人脈の形成を通して密かに爪を研いで世に出る機会を伺う…そんな青年期を過ごしていたのではないでしょうか?
ただ、どこかの政治家みたく社交的に手当たり次第な人脈形成を行うのではなく、諸葛亮自身の価値観による交流の取捨選択があったので、前述のような「脚色されたイメージ」が作られる遠因になったのかもしれません。
「三顧の礼」以後、老練の域に達しつつある劉備が若年の諸葛亮を大抜擢したことは周知の通りです。
この大抜擢は、諸葛亮自身の才能もさることながら、長い流浪生活に終止符を打つため強固な地盤を築きたい劉備にとって、諸葛亮が培った人脈を欲したためとも考えられます。
政権内においては劉表に近い人脈を、また在野においては名士・黄承彦に近い人脈を培っていた諸葛亮の戦略が功を奏した何よりの証拠のように考えるのです。


[ 2004/05/02 01:20 ] 樹形図で見る三国志 | TB(0) | CM(0)
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