随分日が開きましたが、「関羽の横恋慕話」後日談中編です。
今回は、関羽の大失恋の相手・杜氏の後日談。
電撃的な横槍で、
曹操の側室となってしまった杜氏ですが、その後、曹操の寵愛を受け、皇后に次ぐ序列である「
夫人」に列せられることになります。
女性としては、「出世」したといっても過言じゃないですね。
いわゆる「玉の輿」に乗ったってやつです。
さて、杜氏には、前夫・秦宜禄との間に儲けていた子どもが1人いました。
秦朗、字を元明といいます。
秦朗は連れ子にも関わらず、曹操に大層可愛がられます。
同じ連れ子仲間の何晏(後漢朝末に大将軍となった何進の孫)とは対照的に、秦朗は謙虚な性格かつ無為無能な人物だったようです。
そのおかげか、曹操の孫・曹叡の時代には大変重用されました。
秦朗が曹叡という権力者にとって「無害」な存在だったゆえに、逆に重用されたのかもしれません。
一世を風靡することになった秦朗も、曹叡死後に失脚するのですが、その子・秦秀は晋代において『晋書』に名を残す程度に出世をしています。
また、連れ子の秦朗以外にも、杜氏は曹操との間に曹林、曹袞という子を儲けます。
杜氏自身、沛王・曹林の母ということで「沛王太妃」と呼ばれることになり、一定の権勢を誇っていたようです。
三国時代の女性は、「勝ち組」の男性と結ばれることで、より「幸せ」を享受することができ、またその男性の子を産むことで「幸せ」の期間を保つことができる…これが当時の暗黙知。
だとすると、杜氏は大乱世において、権力者たる一族・曹氏の庇護の下で「女性の幸せ」を十分満喫できる人生を送ることができたのでは?と思うのです。
前夫の秦宜禄は、ふとしたことであっけなく張飛に斬殺され…
熱烈な求愛を示した関羽も、乱世の濁流に揉まれた末に塩漬けの白髪首ひとつとなり…
杜氏は、秦宜禄の死、関羽の死を、どのように受け止めたのでしょうか?
杜氏自身の記述はとても少ないです。
ただ、息子・曹袞がとくに「平素より敬虔で慎み深い」と評されていることから、母親である杜氏自身も慎み深い性格だったのではないかと思われます。
秦宜禄、関羽の死に対しても、若かりし頃を思って
そっと心で手を合わせる…そんな心境だったのではないか、と男である私は願望も交えてそう思うのです。