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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

中国旅行から~其の参~ 

こんばんは。
日曜日にアモイから日本に帰ってきました。
夢のようにあま~い1週間でしたが…月曜日からは、また過酷でピリ辛な日常生活が待っています…。

ということで、中国旅行第3回目は、旅先で見かけた「関帝廟」について。
日本でも中華街(本文と無関係ですが、私は「油条」という揚げパンが好きです)などに足を運べば、関帝廟を見かけることはできます。
関帝廟とは、言うまでもなく三国志の英傑のひとりである関羽(財神、商売の神)が祀られた場所です。
…なんですが、広東省開平市赤坎鎮で見かけた関帝廟は、ちょっぴり一味違っていました。
関羽が祀られているのは祀られているんですが(写真)…祀られているのは関羽だけではなかったのです。
同じ「関」姓を有する異なる時代の有名人、関漢卿関天培といった人物もまとめて祀られていました。


しかも、敷地内に「関族図書館(蔵書約22,000冊!)」なるものや「関公文化学術研究中心」なるものが併設されていたり…何だか結構本気(マジ)な匂いがプンプンしていました。
残念ながら早朝のお散歩時に見つけたので、図書館は閉館のため詳しくは探れませんでした。
が、改めて地元で購入した開平市のガイドを調べてみると、華僑の関さん数人が協力して、地元である赤坎鎮に作った施設だとのこと。
関羽(三国時代)も関漢卿(元代)も関天培(清代)も、血脈的には一切無関係の人物だったりするのだけれど、「関族」として強引に一括りにして祀ったり、研究対象にしたりしているということでした。

血脈も脈絡もなく「●●氏」という括りで私設図書館をぶっ建てたり…というのは、日本でもあまりないんじゃないでしょうか?
古代から現代まで有名人を輩出している「氏」だったら…例えば「安倍氏」とかですか?
安倍貞任安倍晴明安倍晋三安倍なつみetc.
やはり、ない臭いがしますね。

上述のような施設の存在は、現代における関羽信仰の根強さは言うに及ばず、関氏の「関族」としての自負や誇り、周囲の人々の関氏への畏敬の念をまざまざと見せつけてくれました。
文献だけでは見えてこない、リアル三国志の一端への接触…これも貴重な体験でした。


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[ 2004/11/29 03:10 ] 三国志之旅 | TB(0) | CM(1)

中国旅行から~其の弐~ 

中国旅行を通して三国志について想う…第2回目は、山越について。
現・江西省、福建省の山岳地帯を主な根城に、絶えず孫呉を悩ませた不服従民たち…それが山越です。
今回の旅の後半に、春秋戦国時代頃からスポットを浴びた「百越」の末裔とも、平地を捨てた漢族の一部とも言われる彼らが跳躍していた、福建省龍岩市は永定県を訪れました。
今は客家人による土楼(円楼)が、多数現存することで有名な地方(写真)。
『頭文字D』とか涎を垂らして喜びそうなほどのクネクネカーブを、約2時間半経験しないと平地に出られないくらい深い深~い山々に点々と姿を見せる土楼群は、生活形態こそ違えどいにしえの山越の生活を想わせてもくれます。

今でこそ客家の人々は見事な「棚田」を各所に作って稲作を行っていますが、約1,800年前の山越が同様に稲などの農作物を育てて主要な食料源としていた…ことは考えにくいです(自生の稲は存在したそうですが)。
それくらい険しく、緑の深い山間の地域。
農耕ではなく採取・狩猟を生業としていたと考えると…よく見聞きする「山越の叛乱」は単純に「食料の多寡」の影響が大きかったのではないか?と思えてきます。
手元に『正史』がないので詳しくはわかりませんが、「山越の叛乱」の起こる年は天候不順の年と重なるのではないでしょうか?
今年の秋、ワイドショーをお騒がせしていた「熊」ちゃんたちと同様、天候不順(台風など)により山間部の食料が枯渇し、止む無く山を降り、麓の村々を食料のために騒がす…そういう構造が見られたりする気がします(帰国後、調べてみます)。

また、東西南北数百?は連なる険しい山々を跋扈する山越を討ち尽くすことは、当時の兵器と技術ではまず無理だったと考えます。
陸遜、賀斉など、呉の多くの武将が山越討伐で名を挙げていますが、武将の名が連なれば連なるほど、山越の根絶もしくは吸収(=納税対象として戸籍化)の難しさを物語る結果となります。
孫呉の得意とする水戦は言うに及ばず、陸戦すらも山岳戦では効果を発揮できたか怪しいものです。
前述通り、食うに困って山を降りる山越を追っても、また深い山々に四散するだけ…。

孫呉にとっては長江流域より南方へ向けて国土を拡大する際に、山越という火種も包括してしまったことになります。
火種を消火しきるため生真面目に討伐を繰り返す孫呉の諸将を尻目に、諸方の山々に住まう山越が村々を略奪しては、お尻ペンペンしながら正規軍を煙に巻いていく…生活、生命を賭けたやりとりである一方、そんな少々おかしみのある風景もまた目の前に広がる感じがしました。


[ 2004/11/28 03:59 ] 三国志之旅 | TB(0) | CM(0)

中国旅行から~其の壱~ 

ようやくNETに接続できました…。
中華人民共和国から、晩上好!
約1週間に亘る旅程の果て、最終地・アモイのホテルからお送りします。
旅行自体のことを書き始めると、「開平の望楼(写真)」の奇妙奇天烈さ、「福建の土楼」の雄大さ、夢にまで見た土楼民泊2連泊、各地に残る日中戦争の傷跡、海外交通事故初体験、同行者のダウン…そしてすべてに言えることだけれど中国人民の温かさ…このBLOGでは主旨が異なるため触れられず、残念です。
もう幾度目かになる中国ぶらり旅ですが、兎に角怒涛の約1週間、相変わらずイベントてんこ盛りでした。

さて旅行を通して三国志について想いを馳せたことなどを、3回程度書いてみようと思います。

まずは広東省開平市を訪れてのこと。
開平は三国時代当時は交州に属する、中華が果てる土地。
このような土地で、40数年間半独立勢力を保ち続けた士燮の存在のデカさを、とくに実感することになりました。
単純に風土として…
★国家規模の教育が行き渡っている現代においてすら、一般的に「普通話(中国語における標準語)」が通じにくい。言語に代表されるように、中原との文化の差異が存在する
そして土地柄として…
★11月下旬でもTシャツ一枚でヘッチャラなほど温暖な気候と豊富な平地の恩恵か、稲をはじめ、野菜や南国果物などモノなりがよい(子どもたちが、自生のスターフルーツをもいで食べ食べ歩いているのを見かけたり)
★後世、マカオや香港などの良港が脚光を浴びるように、海との関連性が強い(内陸までも、太い河川により海洋へと直結)
など特徴的なことを散見できました。

士燮が勢力を張った交州は、今日でこそ漢族が大多数だけれど、当時は恐らく「越族(『百越』の一)」が住民の多数を占めていたのではないか?と思われます。
一方、遙か中原の戦乱を避けるように、異民族の生活空間に続々流入する漢族の人士や民衆。
彼らを受け入れる士燮は交州出身者であり、かつ国都・洛陽への遊学経験が豊富な当時の「名士」のひとりという稀有な経歴の持ち主でした。
土着の異民族と流入する漢族とが入り混じる交州において、現地で産まれ育ち土地の風俗に精通し、かつ中華のなんたるかを中華の中枢で直接的に理解した知識人でもある士燮の求心力の強さは、想像に難くありません。

さらに、武力ではなく巧みな外交力に依って交州を戦乱から遠ざけ続けた士燮の政策は、潤沢な農業と海上貿易に支えられ、かつそれらの活動を支えていたに違いありません。

話は飛びますが、今回観てきた「開平の望楼」は、主に1920~30年台に華僑によって相次いで建てられた西洋風建築物。
その背景には、強盗、殺人が日常茶飯事という、現地の治安状態が極めて悪かったことが挙げられ、海外の華僑たちは帰郷後を想定した自衛手段を講じる必要があった…ということがあります。
しかし時代は異なれど、『正史』を読む限り士燮が実質的に交州に君臨していた時期、戦乱や混乱に関する記事は見当たらない(はずです…弱気)。
交州にとって士燮を戴いた時期は、安らかなる季節だったように思えます。


[ 2004/11/27 23:46 ] 三国志之旅 | TB(0) | CM(0)

11/21(日)から中国旅行 

突然ですが、USHISUKEは11/21(日)~28(日)まで中国を旅行してきます。
場所は、広東省、福建省といった華南地方です。
今回の主な目的は、「次期世界遺産」である
澳門(マカオ)の歴史的建造物群
開平の望楼(広東省)
福建省の土楼
の3箇所を一息に巡ってしまおう!というものです。
私、このBLOGであることないこと書かせていただいている「三国志」や「仏像」と共に「世界遺産巡り」愛好家でもあるので、今からとても楽しみです。

…メインは「次期世界遺産」だけれど、三国志のことも勿論忘れていませんよ。
澳門(マカオ)や開平のある地区は、三国時代でいうところの交州・南海郡、蒼梧郡、高涼郡あたり。
この地域の有名人は、なんといっても士燮(蒼梧郡出身)ら士一族です。
そして、「福建省の土楼」が立ち並ぶ地域は、三国志関係の地図でとくに空白が目立つ揚州・建安郡に属します。
この空白地帯は「未開の山岳地帯」を意味し、孫呉の安定を常に妨げていた不屈の民・山越が盤踞した、いわば彼らの「庭」みたいな場所です。

三国時代に関する歴史的な遺物は皆無でしょうが、その地域の「匂い」を嗅ぎ、「風土」に触れて、よりリアルな知識を蓄えてこようと思います。

また、PCを持参する予定です。
私の拙い知識だけで、運良くNETに接続できれば旅行先からBLOG更新も試みます。
「こんなの観てきて!」
「あんなことしてきて!」
などありましたら、コメントお寄せください!
往復チケット以外な~んにも手配していないため、行き先変更自由自在ですので…。

[ 2004/11/20 09:26 ] 三国志之旅 | TB(0) | CM(1)

約1,850年前の「細眉ブーム」 

BOOM BOOM
90年代の「細眉ブーム」。
流行とかに疎いので間違っているかもしれませんが…私が知る限りでは、安室奈美恵(あるいはwith スーパーモンキーズの方)あたりが火付け役になっていたように思います。
今では、「細眉」なんて時代遅れかもしれませんね。
ま、兎に角、この「細眉ブーム」なんですが、なんと約1,850年前の後漢時代に、既に同じような大ブームが世間を席捲していたようです。
火付け役は、後漢の大悪役「跋扈将軍」こと梁冀の奥さんである孫寿さん。
当時、孫寿がやっていた「細く曲げて引いた眉」が、「愁い眉」として国都・洛陽で大流行。
猫も杓子も眉が細くなるという、大流行っぷりでした。

このお話も前回のBLOG同様『捜神記』に収録されていたんですが、お話のタイトルは「亡国の装い」。
「細眉」=「亡国の装い」。
そう言われてみれば…90年代の「細眉ブーム」も、バブルがパン!と弾けて日本の景気が急速に低迷していく時期に重なります。
「細眉ブーム」は、まさに、「亡国の装い」だったのかもしれませんね。
歴史はくり返す。

[ 2004/11/16 00:23 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

【スクープ】盧植は幽霊の子孫! 

時候は、晩秋。深まる秋、読書の秋。
みなさん、どんな書物に親しんでいますか?
私は、昨日『捜神記』という本を読んでいました。
東晋時代の干宝という人が、古今東西の故事を編集した書物です。
内容は神怪霊異、奇々怪々、超常現象etc.様々な珍奇なできごとを集めたもの。
荒唐無稽なお話も多く、ニヤニヤしながら目を滑らせていたのですが…驚くべき内容に目が釘付けになりました。

なんと、あの盧植が、こともあろうに幽霊の子孫だったなんて!?
盧植は、若き日の劉備、公孫瓚の学問の師匠であり、また黄巾の乱の際は討伐軍を率いて大功を立てた知勇兼備の驍将。

その盧植の祖先である盧充という人物の物語。
…ある日盧充は狩りに出て夢中になり、道に迷った末に一軒の邸に招じ入れられます。
家の主は、崔という県尉。
崔県尉曰く「以前、盧充の亡くなった父から、崔家の娘を盧充の嫁にいただけないか?との手紙をもらっていました。大変光栄なことなので、ぜひ娘と婚礼をあげてもらいたいと思い、邸に招いたのです」とのこと。
盧充はそのまま崔家の娘と結婚するのですが、婚礼の3日後突然、崔県尉から実家への帰宅を促されます。
そして、別れて帰宅した盧充は家族から、知らされます。
崔県尉も崔家の娘も今は亡き人であり、盧充が訪れたのは崔家の墓だったことを…。
尋ねる術もない妻を想い、嘆き暮らすこと4年後のある日。
川辺で禊をしている盧充の視界に、川をわたってくる2台の牛車と、牛車に乗っている妻の姿が飛び込んできました。
胸躍らせて妻との再会を喜ぶ盧充。
しかし妻は、抱いている3歳になる男の子を盧充に渡し、
「…妻と呼ばれんすべもなし されど嬉しきさだめあり 賢しき君とめぐり会う…」
という詩を残し、その場から永遠に姿を消してしまいます。
盧充が抱いている男の子は、3日間という短い新婚生活で授かった2人の間の子。
その後男の子は立派に成長し、郡の太守などを歴任。
以後、子孫代々高官に就くことになり、その子孫の1人が誰あろう盧植その人だったのです。

盧充と崔家の娘の結婚は「幽婚(冥土での結婚)」と呼ばれ、東アジア一帯に広がっていた物語の一種もしくは習俗だそうです。
なんとはなしに漂う儚さと哀しさが、思わず胸をキュンとさせる物語。
盧植もその子の盧毓も、盧充と崔家の娘の子孫の名に恥じぬ高潔無比な人物であり…秋の夜長に、とっても良い読後感を残してくれました。

[ 2004/11/14 07:46 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

周瑜~教王護国寺・兜跋毘沙門天像 

第3回目は、京都府京都市にある教王護国寺、いわゆる「東寺」におわす兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)像です。
私が初めてこの仏像を目にしたとき、頭に閃いたコトバは「エキゾチック・ジャパン!」(byひろみ郷)。
閃きとは異なり実際は、Made in Japanではなく中国伝来の仏像ですが…。
仄かに異国情緒が漂っているのは、生産国の違いということです。
そして全体に漂う洗練された都会的感覚とか、日本人の体形とは異なるデルモばりの長い脚(8頭身&腰~脚>頭~腰というナイスバディ!)とか、完全にイケメン的条件を兼ね備えています。
イケメン仏像。
トバ様
さらに、兜跋毘沙門天像はイケメンなだけでなく、元来の位置づけが「王城警護の武神」。つまり、王朝の守護者としての軍人・武人としての役割をもつ「武闘派」でもあるのです。

そんな、「イケメン武闘派」の兜跋毘沙門天には、呉の周瑜がピッタリ。
大きく見開いた眼と、ギョロリとした黒玉の瞳は、曹操の威圧外交に屈することなく孫家の論調を「開戦」にもっていき、「赤壁の戦い」での大勝を導いた彼の意志の強さを表現しています。
また、兜ではなく「四面宝冠」を頭上に戴きつつも、荘厳な「金鎖甲」という甲冑を身に纏い臨戦態勢を整えている姿は、政治家以前に軍略家であり武人である周瑜の本質を捉えています。
揚州を根城としつつ荊州、益州から涼州を奪取して、曹家VS孫家のガチンコ「二国志」を創出するという、繊細にして大胆な戦略を構想していた、その気宇の壮大さを感じることもできますね。
さらに、デルモばりの容姿と微妙な腰のひねり具合からは、「美周郎」と称される周瑜のセクシーさが醸し出されています。



あ!あと、兜跋毘沙門天像の足元には、彼を支える地天女と、その両脇には二鬼が顔を覗かせていますよ。
地天女は周瑜を陰日向で支えた小喬、そして二鬼は孫策、孫権兄弟でしょうね。
『演義』ではとくに孤軍奮闘する周瑜像が描かれがちですが、彼は親近者の愛情に囲まれて一生を送った幸せな人物だったと思いますよ、私は。


--【「兜跋毘沙門天像」の豆知識】
[ 2004/11/11 07:57 ] 仏像見立て三国志 | TB(0) | CM(1)

「三国志」と『三国史記』 

こんにちわたりがに。
以前『CASSHERN(キャシャーン)』を映画館に観に行って、不覚にも一回泣いたのに、昨日DVDを借りてまた同じシーンで号泣した、涙腺が緩みがちなUSHISUKEです。

近況報告っぽくて申し訳ありませんが、ここ2週間ほど、お休みの度に図書館に通っています。
ぞっこんLOVEなお相手は、『三国史記』全4巻という書物です。
みなさんはご存知ですか?
一見「三国志」本のようにも見えますが、実は古代朝鮮について記されている文献なのです。
…昔、「学校」という名の荒んだ社会の縮図の中で「読み方、分かりにく過ぎ!」と、青い反抗心を駆り立てられた
高句麗(こうくり)
新羅(しらぎ)
百済(くだら)
を中心とした編年体の勃興記です。

私にとって、骨まで愛して止まない本妻は常に「三国志」なのですが、どうして『三国史記』と浮気なんかしているのか…?
それは、中華思想的には「野蛮」と括られる民の歴史書『三国史記』を通して、中国サイドから記された文献だけでは窺い知ることができない虚実入り混じっての事柄が、新たに見えてくるからです。

たとえば、魏将・毋丘倹の高句麗征伐について。
246年、当時幽州刺史だった毋丘倹が、約1万人の将兵を率いて高句麗に侵攻。
高句麗の王都を瞬く間に陥落させ、さらに周辺の沃沮や貊といった諸国も平らげて意気揚々と凱旋する…といったことは『正史』の語るところです。

同様の事柄が『三国史記』にも見えるのですが、征伐された側としての記述が興味深いのです。
『正史』では毋丘倹連戦連勝!…っぽいイメージですが、『三国史記』では彼も結構苦戦させられていたりします。
やや長いですが、順を追って見てみますね。
┏━━━━┓
┃ラウンド1 ┃
┗━━━━┛
魏将・毋丘倹VS高句麗王・位宮(東川王 憂位居)の緒戦は、鴨緑江沿いでの会戦だったのですが、いきなり毋丘倹は煮え湯を飲まされます。
3,000にも及ぶ首級を挙げられるという、惨敗。
┏━━━━┓
┃ラウンド2 ┃
┗━━━━┛
両者、梁、貊の谷で再戦。
しかし雪辱を果たせず、毋丘倹はまたしても敗れ、3,000余の首級を挙げられます。
連戦連敗…魏の名将形無しです。
┏━━━━┓
┃ラウンド3 ┃
┗━━━━┛
調子に乗って追撃をかける高句麗王・位宮ですが…今度は彼が大惨敗。
窮鼠猫を噛むというか、なんと18,000人の戦死者が出るという未曾有の敗戦を喫します。
これにより、高句麗は一気に王都を制圧され、位宮はほうほうの態で隣国を逃亡し続けることになります。
┏━━━━┓
┃ラウンド4 ┃
┗━━━━┛
一計を案じた位宮は、魏に偽投降を図ります。
この計略と、奇襲攻撃の合わせ技により魏陣は混乱をきたし、崩壊。
ついに楽浪より後退せざるをえなくなります。
魏軍の楽浪からの後退が、大敗戦後の高句麗のカムバックにつながっていくのです。

簡略な『正史』の記述では分からない、白熱する一進一退の攻防が伝わってきますよね。
しかも、なんと戦歴的には魏が1勝3敗と負け越していたり…王都が敵に占領されるという屈辱的な歴史に対する、そこに住まう民の想いなんかも伝わってきて、想像力を掻き立てられます。

『三国史記』にふらふら浮気しているのも、最終的には本妻である「三国志」の魅力をさらに引き立ててくれる結果につながっています。
ときどき違う角度から眺めてみると、「ハッ!」とするようないつもとは違った表情を見せてくれる「三国志」は、やっぱり骨まで愛するに足る本妻ですよ。

[ 2004/11/07 01:26 ] 辺境三国志 | TB(0) | CM(0)

『三国志』宮城谷昌光著 

おそらく「三国志」好きなかたは既に読んでいると思いますが…宮城谷昌光氏による『三国志』が先月刊行スタートしました。
2001年から『文藝春秋』にてほぼ毎月連載されている歴史小説、待望の書籍化ですね。
日本人の三国志観を『演義』1色に染め上げてしまった吉川英治『三国志』並みに、インパクトのある「三国志」本だと思います。
『後漢書』『正史三国志』などといった「正史」を底本としつつ、古代中国史への深い造詣と無限に広がるイマジネーションを武器に、縦横無尽に筆を滑らせている…そんな感じ。
私がとくにスゴイなぁ…と舌を巻く思いでいるのは、以下の2点について。

★3代章帝から始まる、かつてない壮大な「三国志」物語であること。
通念的には、早くても12代霊帝から物語が始まる「三国志」本が多いのだけれど、宮城谷『三国志』はそのさらに9代前からスタート。
「三国志」の舞台を圧倒的な個性で跳躍する曹操を描くには、曹操の生命自体への響力が強い曹騰を描かねばならず、また曹騰を描くには宦官を掘り下げ、また宦官を掘り下げるなら約1,900年前の宮廷政治を描写する必要があり…といったことから、少なくとも章帝の時代から筆を起こす必然性があったということです(書店で無料配布されている『三国志』別冊参照)。
…なるほど、そう言われればもっともな感じですが、通常の「三国志」よりも約100年分遡るわけなので、これまた大変だなぁ…と大感心です。

★当時の官制や慣習への精通から導かれる、圧倒的な世界観があること。
例えば「四知」(後漢の名臣・楊震のコトバ)に表現されるような、古代中国を流れる伝統的感覚が、少なくとも『三国志』1、2巻の世界観を大きく形作っているようです。
「たれも知らないと思われることでも、天が知り、地が知り、わたしが知り、あなたが知っている」
古代中国の人士の心構え、精神世界というものを代表するコトバであり、そこから古代中国を凝視し続けた作家だからこそ構築しうる世界観になっていくんだと思います。
また、一般人には語句レベルから既に分かりにくい当時の官制も、詳細に分解。
「三国志」を新たに照らし出すカギとなっており、私にとって普通に勉強になります。

宮城谷『三国志』は、常識を覆されたり、「そういう見方があるのか!?」と驚かされたり…兎に角、面白い歴史小説だということを言いたいです。
11月上旬には、第1期の最後になる第3巻が刊行されるそうです。
楽しみ、愉しみ。

宮城谷『三国志』を読んだかたは、どう感じましたか?
是非コメントにて感想をお寄せください。


[ 2004/11/05 07:32 ] 三国志BOOKS | TB(0) | CM(0)
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