三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

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三国志名城シリーズ1 ~陳倉城~ 

日本各地をぶらり旅すると、多くの地方に「城」もしくは「城址」が存在します。
城巡り、心躍りますね…「兵どもが夢の跡」ってな感じで。
他人がいないのを確認してから(…気が小さいんで)
「うおぉぉぉぅ~!」
とか叫びながら、傘とかを捧げ持って、つい走り回ったりしてしまいます。

日本に名高き「三名城」(熊本城姫路城松本城)などなどがあるように、大乱世の三国時代にも書物他にその名を刻む名城が各地にありました。
…が、同じ「城」という単語を使っても、概念的にも、想起するイメージも随分異なるかもしれません。
日本における城が、主に「武士」などの戦闘員とその家族だけが入る防御施設を指すのに比べ、中国における城は、都市や村などの居住地の全周を囲む防御施設を指すためです。
そんな違いも踏まえつつ、このシリーズでは、難攻不落の城、特殊なエピソードを持つ城などなどを紹介していきたいと思います。

第1回目は、三国志指折りの難攻不落の堅城・陳倉城。
陳倉城は、雍州扶風郡(現・陜西省宝鶏市近く)にあった城。
「兵法三十六計」の第八計「暗渡陳倉」にも名を残すほど、古い時代から重要な拠点であり続けた陳倉城。
三国志での堅城っぷりはこれまた抜群なもので、次の2つのエピソードがとくに有名です。

1.皇甫嵩、陳倉城の堅固さを頼り、賊徒を平らげる之巻
188年、涼州の王国という人物が叛乱を起こし、陳倉城を包囲したときのこと。
皇甫嵩と董卓が仲良く(仲悪く?)一緒に討伐に向かいます。
そのとき皇甫嵩は、「陳倉城は守りが堅いので、救援を急ぐ必要はない。王国軍が攻め疲れた頃を見計らって、攻撃すべきだ」との方針をとります。
結果…

王国は冬から春に至るまで八十余日に渡って陳倉を包囲したが、城は堅固で守りも堅く、遂に落す事ができなかった。賊たちは疲弊し、結局自ら囲みを解いて去った。…(追撃した)皇甫嵩は連戦して大いに敵を破り、首を斬る事一万余級に上った。王国は逃走して死んだ。(『後漢書』「皇甫嵩伝」)

…という大功を立てました。

2.魏将・郝昭、諸葛亮の大軍を防ぐ之巻
228年12月、その年の初めに街亭で敗北を喫した諸葛亮は、再び大軍を率いて陳倉を突きます(第2次北伐)。
陳倉城を守るは、兵卒からの叩き上げで守備隊長に就任している郝昭。
1,000人余りの郝昭守備隊VS諸葛亮が率いる数万にのぼる蜀の大軍。
降伏勧告を跳ね除けた郝昭は、20日間に亘る壮絶な防衛戦を戦い、陳倉城を墨守します。
諸葛亮がはしご車(雲梯)や戦車(衝車)といった兵器を駆使すれば、火矢や石臼で潰し、トンネルを掘ってくれば、切断し…昼夜構わず、知力、死力を尽くして守り抜きました。

…郝昭他の戦いも見事ですが、北に黄土台地の峻崖を背負い、南に渭水を臨む要害の地に建てられた城そのものの価値も相当なものです。
三国時代、陳倉城は、数多の攻撃者にとってとてつもなく巨大な壁とし屹立していました。


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[ 2004/12/30 03:54 ] 三国志名城を行く | TB(0) | CM(0)

塩と三国志 ~第3回 塩と蜀と贖罪~ 

日曜日夜、教育テレビで放送されたスーパー歌舞伎『新・三国志 完結篇』…圧倒されました。
魏将・謳凌なる架空の英雄を主人公に織り成す、歌舞伎と京劇が一体となったような三国志絵巻。
昨夜観るまで興味のなかった自分を呪いましたよ…観に行きゃよかった。

さて、今回は「塩と三国志」の3回目です。
魏呉蜀の三国中、最も塩との関係性に面白味があるのは、蜀だと思います。
なので、今回は塩と蜀について書いていきます。

劉備は益州を平定した後、すぐに「塩府校尉」という官職を設置しました。
塩府校尉は、蜀全域の塩、鉄を一手に監督させ、国庫の増収に寄与させるための官職。
劉焉、劉璋政権では存在しなかった官職の新設は、劉備政権の卓越した行政眼とともに、蜀における塩の重要性を明らかにもしてくれます。
「塩府校尉(=司塩校尉)」として劉備政権首脳陣の期待に大きく応えたのは、王連という人物。
王連は塩によって名を挙げたという、三国志の中でも稀有な経歴の持ち主です。
『蜀書』「王連伝」に曰く…

(王連は)司塩校尉に昇進し、塩・鉄の利益を全面的に管理し、国庫の収入がひじょうにふえ、国の予算に利するところがあった。


…と、彼の業績はとくに蜀創業期における国庫増収面で大絶賛されています。

このような塩を重視する政策は蜀の国是のようになり、劉備没後も諸葛亮により継承されていきます。
諸葛亮の南征及び南中経営にもまた、塩が大きく関係しているようなのです。
『漢書』「地理志第八上」を繰ってみると、雲南一帯は
★越スイ郡・定筰(現四川省・塩源県)
※「塩源」という現地名が特産物としての塩を如実に表していますが、塩源県の近くには塩辺県という地域もあるみたいです、地図を見ると。
★雲南郡・姑復(現雲南省・永勝県)
★建寧郡・連然(現雲南省・安寧県)
といった各地で、塩が豊富に採取されていました。
諸葛亮の南征では、こういった塩を産出する各地を押さえることを、南征後の南中経営では、塩の専売権を握ることを徹底してもいました。
例えば、南中経営のエキスパート・張嶷が、赴任先の越スイ郡で行った数少ない強硬的政策に、原住民からの塩、鉄の専売権奪取があることからも、それは類推できます。

以上のように、蜀は塩によって栄えたという側面をもち、両者は切っても切り離せない関係だったってことが見えてきました。
…と、何故このように私が塩と蜀について、読者のみなさんが半ば引くくらいに熱く書き殴っているかというと…罪滅ぼしなんです。
本BLOG「人物列伝其の3 張嶷」トンチンカンな文章を書いていたのです、私。

南中は、塩や鉄を多く産する希少な土地柄。
海洋に接していない蜀にとって、生活必需品かつ恐らく供給不足に悩まされたであろう塩、そして戦争や農耕に欠かせない鉄の供給を行なうことができました。


「塩と三国志 ~第1回~」でチラッと書いていた「日本人ならではの感覚を三国志に持ち込むと、歴史認識に誤りが生じてしまう好例」とは、まさにこのこと。
海洋に接していようがいまいが、内陸部でも塩は産出されるのです。
なので「供給不足」というよりも、「安定供給とともに国庫増収」の方に重きを置いた政策だった…というのがより適確な解釈だと、今は考えています。
反省

[ 2004/12/28 00:51 ] 03:塩と三国志 | TB(0) | CM(0)

塩と三国志 ~第2回 塩と関羽~ 

今日は以前から観たかった映画『ジャンプ』をDVDレンタルして、観ました。
原田泰造、イイ演技していますね。
♪は~ら~だ~たいぞうです!♪
とか言っている原田泰造とはちょっぴり違いますね。
ああいうナチュラルな感じは、過剰な演技に食傷気味な中、ホッとさせられます。

…ということで、今回は塩と関羽について。
関羽の出身地である司州河東郡解県は、「解池(塩池)」という池で生産される「解塩」によって古今通じて有名な土地です。
「解塩」は、「塩と三国志 ~第1回~」で書いた5種類の塩の中の「池塩」にあたります。
古代王朝の殷も周も、まずこの解池を支配したし、秦の始皇帝の覇業は、この解池を奪取したことで加速したといいます。
また現代でも、解池での塩の生産量は中国全土の74%を占めるといいます。
中国において、古今東西、こんなにも強烈な影響力を持つ解池の塩。
それだけに解池近辺で生活する者は、その人生で多かれ少なかれ必ず解塩と関係を持つことになるともいいます。

長い前置きはここまでにして、関羽のお話。
『蜀書』「関羽伝」のしょっぱなにあるように

(関羽は)本籍から涿郡に出奔


して、後に劉備や張飛と出会うことになります。
が、肝心の「出奔」しなくてはいけない程の何が起こったのかは、推測するしかありません。
冒頭に触れた『ジャンプ』も失踪者のお話だったんですが、「出奔」するからにはそれ相応の原因が関羽にもあったに違いないのです。
ここで、関羽の出奔に関して、彼の出身地に近い解池の塩が絡んだ伝説が生まれました。
伝説の内容は、以下の通り。

…関羽が19~27歳の頃、解県に悪徳な塩の密売商人・呂熊という人物がおりました。
呂熊は札付きのスケベさんで、数多くの女性を手籠めにしていたのですが、遂に彼に逆らい自殺する女性が出てしまいます。
ここで立ち上がったのが、若き日の関羽その人。
暗夜、彼は刀を片手に呂熊の豪邸に押し入り、一家全員皆殺しにします。
血脂でボロボロの刀を下げ、全身血まみれになって帰宅した関羽。
そんな我が子を見て、関羽の父母は「義による行動だ」と認めます。
ただ、すぐにでも差し向けられるだろう追っ手から逃げねばならず、足手纏いになってはと、父母は井戸に身を投じて死んでしまいます。
関羽は自宅の壁を押し倒して井戸を封じ、出奔…2度と故郷に戻ることはありませんでした、とさ

以上の伝説は、以前にも出典として紹介した『関羽伝』(今泉恂之介著/新潮選書)からの引用です。
他にも塩商人の用心棒をしていた関羽が人を殺し、出奔した…などの伝説もあるようですが、いずれにも解池の塩が関わりを持つところが、ならではな感じです。

出奔後、関羽は常在戦場約3、40年。
故郷・解県より遠く南方、荊州南郡臨沮が彼の終焉の地となります。
斬首後、関羽の首は孫権から曹操に送られ、曹操により丁重に葬られます。
関羽の塩漬けの首…
私がモノ書きだったら、首を漬けたその塩は、関羽の故郷・解池(塩池)産の塩ってことにしますね。
若かりし頃故郷を出奔して以来、長い長い人生の旅の果て…故郷の匂いのする「解塩」に包まれて安らかな眠りにつく関羽…そして後世、故郷・解県の塩商人たちによって「関帝」として神格化され、民衆に浸透していく…
そんな三文小説家の駄作のようなクライマックスに。

[ 2004/12/26 08:30 ] 03:塩と三国志 | TB(0) | CM(0)

塩と三国志 ~第1回 塩ととんかつと私~ 

メリクリ!
みなさんは、どんなクリスマスをお過ごしですか?
私はレンタルしてきたサンボマスターを聴きながら、熱い血潮を胸に、冷めたチキンを胃に、「新しき三国志の道と光」を模索しています。
…ということで、X'masとはま~ったく無関係な「塩」について、今日から3回ほど書いてみようと思います。

なぜ「塩」か?
というと、やっぱり三国志と密接な繋がりがあるからなんですが…
とりあえず今回は「塩」全般について、次回は「塩と関羽」について、次々回は「塩と蜀」について書くことにします。

…なんですが、みなさんは知っていましたか?
塩というのは、海水からせっせと煮出して醸成するものがメジャー・オブ・メジャーだと思っていたら、違うんですね。
現在、全世界で使われる塩の2/3は「岩塩」だそうですよ。
ビックリ。
というか、塩には大きく5種類もあって

1.海塩(海から採れる塩)
2.池塩(塩池から採れる塩)
3.井塩(地下の塩水から採れる塩)
4.土塩(地表に含まれる塩分を溶かして採れる塩)
5.岩塩(地下や一部地表に隆起した結晶化したものから採れる塩)


という風に分類されるらしく、海水から採れる塩なんて塩全体のほんの一部だったんですね。
※そういえば、この前行ったとんかつ屋に「パハール岩塩」なる岩塩が置いてありました。この岩塩をつけてとんかつを喰べてみると、ほんのり甘く美味しかったですよ。ピンク色の塩なので、目立ちます…が、別に怪しい販売員ではありませんよ、私は。

なるほど!これで、ひとり勝手に納得できました。
塩がないと人間は生きられない…というのはよく耳にしていたんですが、そしたら例えば海なんか遥か彼方の四川省で、人がよく生きていられるなぁ…まして交通手段が稚拙だった三国時代当時によく生きていられたなぁ…と、不思議だったんです。
ちなみに、日本の戦国時代、「上杉謙信が武田信玄に塩を贈った」という逸話がありますが、あれは日本ならではの話なんですね。
なぜなら、日本は池塩や岩塩が皆無な土地柄で、海水から塩を採るしか方法がないから。
つまり、日本の内陸部で生活するには、沿海部から塩を輸送する以外に塩を摂取できる道はない…でも、中国では内陸部でも採れる塩を普通に摂取できるということです。
日本人ならではの感覚を三国志に持ち込むと、歴史認識に誤りが生じてしまう好例ですね。
アブナイ、アブナイ。

中国では、塩に関して、前漢・武帝期(前119年)以降徹底した専売制が敷かれていました。
生活に不可欠かつ代替品の存在しない塩が国家にとって有効な収益源になるのは勿論、一部地域だけでなく沿海部、内陸部と全土から搾取できるというのも、専売対象となった理由なんでしょう。
※日本でも、1997年に自由化されるまで塩は国家の専売品だったんですね。これも知りませんでした…。

この「内陸部でも採れる、専売制下の塩」というのが、次回以降もKEYWORDです。
関羽は塩の一大生産地・解池(塩池)周辺の出身だったことが、その後の人生に影響しているようで…
諸葛亮の南征と南中経営に、雲南地方で大量に生産される塩が大きく関わっていたようで…
その辺を突いていってみたいです。
といことで、次回また。

[ 2004/12/25 12:19 ] 03:塩と三国志 | TB(0) | CM(1)

【トラブル】複数の記事が「下書き」に替わっていました。 

今、気付いたのですが、複数(20数個)の記事が「下書き」状態に替わっていました。
もし「あれ?」と思われていたかたがいらっしゃいましたら、申し訳ありませんでした。
心あたりが全くないので、現在Doblog編集部に問い合わせております。
日付やジャンルが別々の複数の記事が、急に「下書き」に替わっちゃうということがあるんでしょうか?
ゲッ!消えちゃった!!」
と思ったので、「下書き」に替わった程度でホッとしています。

[ 2004/12/19 22:42 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)

淩統の「淩」 

先日、まるたま。さんに教えていただいた「CGI」を猛勉強中のUSHISUKEです。
「perl」だとか「パーミッション」だとか、わかんない未知のコトバばかりで…コンピュータと上手にお話できません。
未知との遭遇。
コミュニケーション障害中。

それは、それとして。
最近『中国姓氏事典』(日中民族科学研究所編/国書刊行会)という書籍を古本屋で購入しました。
ゴロゴロしながら、パラパラ目を通しているのですが、これが結構面白いのです。
ネタ満載なので、今後小出しにしていきますが、今日はそこからひとつ。

呉の淩操、淩統父子。
淩操は孫策麾下として、淩統は孫権麾下として名を馳せた猛将。
彼らが戴く「淩」姓も歴史書に燦然と輝いています
…が、この「淩」姓、実は間違いらしいのです。
原姓は「凌」(にすい)。
彼らが書き間違ったのか?
それとも彼らの祖先が書き間違ったのか??
いつの間にやら書き間違いの「淩」(さんずい)が正式な姓になってしまったという…そこはかとない面白さと哀しさ。

哀戦士・淩操、淩統。
歴史書に名を残すほどの人物にもなると、いろんな難癖がつけられるんだなぁ…と。

[ 2004/12/19 12:22 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(8)

まもなくアクセス数40,000件! 

2004年もあとわずか、そして12月18日には本BLOG「三国志漂流」1周年という時期に、総アクセス数40,000件という節目が見えてきました。
3か月に及ぶ長い「無更新時代」があったにもかかわらず、今も「三国志漂流」をご覧いただいているみなさんに改めて大感謝です!
謝謝!多謝!
そこで、アクセス数20,000件のときと同じく
「40,000件目のご訪問者に心ばかりのプレゼントを差し上げますよ!」企画
を行いたいと思います。
家に転がっている三国志ゆかりの品から、何か見繕って贈ります。
見事40,000件目をHITさせたかたは、ぜひコメント欄やメールにてお知らせくださいね。

[ 2004/12/12 01:27 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)

関興の生年 

前回記事「関興のお母さん」の続きです。
「虚実の探求は別次元の問題」と書きながら、ちょっと確認しておきたいことがあるのです。
『関羽伝』と『正史』他の資料とでは、どうしても関興の生年に食い違いが生じてしまいます。

まず『関羽伝』の記述を、ザックリと年表形式で表すと…

160年:関羽誕生
177年:胡氏と結婚(関羽17歳)
178年:長子・関平誕生(関羽18歳)
184年:

この辺で関羽は故郷・司州河東郡解県を出奔。
関興はそのまま村に残され、村人に育てられた…そうなので、関羽出奔前に関興が出生しているということになります。

188年:劉備、張飛と出会う(関羽28歳)
219年:関羽死亡(関羽59歳)

ということで、『関羽伝』による関興の生年は、179~187年頃です。

…と、ここまでは『関羽伝』を読みほぐしてきたのですが、一方研究書や『正史』から、関興の生年がどのように類推できるかというと…
★関興は、224、225年に蜀の侍中に任じられています(『三國政権の構造と「名士」』渡邉義浩著/汲古書院刊)。
★また「20歳で侍中・中監軍になった」という記述が『正史』にあります。
ここから、関興は224、225年頃に20歳であったことがわかります。
ということは、引き算をすれば関興の生年は、204、205年頃ということになります。

…ん??やはり…
『関羽伝』のネタ元である郷土史家の話と、『正史』他を元にした話とでは、関興の生年に食い違いがありますね。
関興の生年は、『関羽伝』だと179~187年頃、『正史』他だと204、205年頃。
下手したら1世代も違います…。
ただし、「そしたらどっちが正しいんだ!ん~どっち!?」と言われてもこれ以上掘り下げる情報もないですし…前回の記事「関興のお母さん」については、このような食い違いも踏まえて読んでくださいね、というところで締めさせてもらいます。

[ 2004/12/11 11:54 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

関興のお母さん 

1か月半くらい前の記事「『三国志』であなたの贔屓は魏?呉?蜀?」で、バナナ牛乳さんからコメントをいただいていた…

一方で、関興はどんな方との間に生まれたのかも気になったりして…。

について少しわかったことがあるので、今回はそれを。
ネタ元は、たまたま神保町で見つけた
『関羽伝』(今泉恂之介著/新潮選書)
という書籍です。
(神保町といえば、「ボンディ」というカレー屋さんが美味しいです。先月はエビカレーを3回喰べました)
この書籍、『正史』など信頼性の高い資料を元にしたものではなく、関羽の故郷に住む郷土史家へのインタビューなどがメインだったりするので、内容的に怪しい部分も多いのですが…とりあえず。

『関羽伝』の記述によると…
関興は、関羽が19~27歳の間に産まれた次男坊です。
関興のお母さんは、胡氏という女性。
関羽は、17歳のときに胡氏と結婚し、翌年には長男・関平を儲けたようです。
関平は『演義』のように養子ではなく、関羽の実子ということですね。
それにしても、17歳の結婚ということは、現代だと高校生同士の結婚。
「3年B組金八先生」(シリーズ第1作)で、杉田かおるが高校生ながら妊娠、出産した…そんなシーンを私は思い出しますが、全く無関係、脱線スミマセン。

さて関平に続き、179~187年の間に、次男坊・関興も誕生。
関羽と胡氏は、関平、関興という2子に恵まれ、くは幸せな生活を送ります。
しかし、関羽家の幸せな日々は、長く続きませんでした。
関羽は、劉備、張飛と出会う188年までに、殺人など何らかの罪を犯し故郷を追われてしまうのです。
出奔した関羽が幽州涿郡に流れ着き、そこで劉備、張飛と出会い、後漢末の乱世に身を投じていくのは周知の通り。

関羽が出奔した後に残された胡氏と関平は、胡氏の実家に身を寄せて暮らすことになります。
が、どういうわけか関興はそのまま司州河東郡解県(現・常平村)に残り、村人に育てられたそうです。

『関羽伝』で、関興のお母さんについてわかることは、ここまで。
とりあえず、関興のお母さんは
★名前は、胡氏
★関羽が17歳のときに結婚
★長男・関平と同じお母さん
★関羽とはごく若い頃に離れ離れに…
(★杉田かおる似)
ということがわかりましたね。
今回の内容に関して、虚実の探求は別次元の問題ですので、あしからず。

[ 2004/12/10 02:21 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

ハリウッド(?)映画『赤壁之戦』 

ご存知のかたは、山のようにいらっしゃると思います。
流行に疎い私は1か月前くらいに知ったのですが…どうも三国志がハリウッド(?)映画になるらしいです。
タイトルから察して「赤壁の戦い」に焦点を絞った内容のようですが、総費用40億円(!)ともいわれる、かなり本格的な映画になりそうです。
キャスティングもボチボチ決まってきているようなので、ここでお知らせしておきます。

【監督】
呉宇森(ジョン・ウー)
【出演】
諸葛亮:梁朝偉(トニー・レオン)
劉備:周潤発(チョウ・ユンファ)
周瑜:李連傑(ジェット・リー)
大喬:鞏俐(コン・リー)
小喬:章子怡(チャン・ツィイー)

中国、香港を中心とした第1級の出演者ばかりですね。
★ジェット・リー(周瑜)の少林寺拳法が、トニー・レオン(諸葛亮)の愁いを帯びた横っ面を見事に痛打!!
★コン・リー(大喬)とチャン・ツィイー(小喬)の超絶美人セクシー姉妹のお色気攻撃で、曹操が孫呉への侵攻を取り止め!!
などなどの展開、楽しみです(あり得ないけど)。
キャスティングについては他にも
竹野内豊やぺ様も出演か!?
など未確認情報が錯綜しているので、今後も目が離せない感じですね。

※今回の情報は、三国志サイト「三国志愛好会」のメーリングリスト他から引用させていただきました。

[ 2004/12/08 03:13 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(2)

中国旅行から~番外編~ 

前回の「水牛話」に絡めて、ちょっとプクイチ…。
横山光輝『三国志』でも、水牛大登場。
白目剥き出しという不気味なおめめの水牛の背には、「源平合戦」を髣髴とさせるような名乗りをあげる“南蛮軍副将”忙牙長あり。
漆黒の水牛と髭ぼうぼうの武将のコラボ…いかにもって具合の猛々しさが漂っていますね。
横山光輝氏のイマジネーションに、感服です。


あ!そこに、なんと“実写版”忙牙長もトボトボ登場。
う~ん、その目つきは忙牙長の狂暴さそのもの!
(実際は、汚い身なりのアジア人旅行者に対する不審な眼差しなんでしょうが…)
この写真は、西アフリカのマリ共和国をぶらり旅したときのものなので、対象はアフリカ人だし、子どもだし、水牛じゃないし…“バッタもん”忙牙長ですが、もし忙牙長が実在していたら(『演義』のみの人物なので)、雰囲気はこんな感じだったでしょう。


[ 2004/12/06 06:45 ] 三国志之旅 | TB(0) | CM(0)

中国旅行から~其の五~ 

バナナ牛乳さんからいただいたリクエストを真に受けまして…調子に乗らせていただきます。
追加でもう1回、中国旅行レポートをお送りします。
今回は三国時代の、主に華南の風景について、イマジネーションを膨らます参考材料として。
華北(黄河流域)と比較して、華南(長江流域以南)の風景を特徴づけるとっても印象深いものは、水田と水牛(写真)の存在です。
「畑作(小麦など)+牛」中心の華北と、「稲作+水牛」中心の華南。
私にとって田舎といえば、広々とした田んぼと、秋になると一面を金色に染め上げる稲穂のイメージ。
だから、華北にも華南にも旅したことはありますが、気持ちが落ち着くのは水田が広がる華南です。
しかも、日中のんびり泥水を浴びていたり、あくびをしたりしている水牛を見ると、こっちまでホケーッとした気持ちになってしまいます。

華南で普通に見かける水牛(アジアスイギュウ)は、牛とは異なる性質をもっています。
※以下『世界大百科事典』(平凡社刊)から一部拝借。
彼らは体温調節機能があまり発達していないため、高温多湿を好み、暑い日中の労働はニガテ。
たとえば三国時代当時、牛は輜重を牽引する役用牛としての役割もあり、馬と比べると、とくに運搬力の強さから坂道で力を発揮していました。
牛は、軍事にも密接に関わっていたんですね。
しかし、水牛は不適…力はあっても、水のない状態での労働はニガテなので。
田んぼの土を起こしたり、泥土を攪拌したり、収穫した稲を夕方に運んだり…時たま儀礼用の供物として捧げられたり…。
三国志の英傑たちが火花を散らして戦うその場面に登場する機会は少なかったかもしれませんが、より民衆の日常生活にピッタリ寄り添った形で、三国志の風景を構成していたことに間違いはありません。
そんな平々凡々な風景も大切にイメージしながら、三国志の世界を堪能していきたい…そう感じています。


[ 2004/12/05 23:39 ] 三国志之旅 | TB(0) | CM(0)

中国旅行から~其の四~ 

今回は第4回目ですが、「中国旅行から~其の弐~」の補足です。
「中国旅行から~其の弐~」で書いていました…
[ 2004/12/02 02:34 ] 三国志之旅 | TB(0) | CM(2)
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