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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

呉の四姓 

こんにちは。
最近も相変わらず『三国志大戦』にはまり続けて、やっと7品に昇格しました。
みなさんは、『三国志大戦』やってますか??
さて、今日はタイトル通り「呉の四姓」について。
孫呉が根拠とした揚州(江南)一帯では、後漢~三国時代にかけて「呉の四姓」と呼ばれる土着豪族が強い影響力をもっていました。
彼ら「呉の四姓」は、孫堅・孫策とは一定の距離を保ちつつ、時には批判勢力の一翼として激しく対立し、孫権の代になってようやく孫呉政権の中枢に参加し、政権運営に大きく寄与しました。
彼らの存在を語らずして孫呉、ひいては三国志を語ることはできない…といっても過言じゃないと思います。

…と、そんなことを頭の片隅に置きつつ
『世説新語』(藤堂明保監修 竹田晃訳/学習研究社刊)
という書籍をパラパラ捲っていたところ

呉の四姓旧目に云う
「張文、朱武、陸忠、顧厚」と。
(『世説新語』「賞誉第八」)

なる文章を見つけました。

んー言い得て妙だなぁ…と感心。
「呉の四姓」を構成する土着豪族は、
 張氏
 朱氏
 陸氏
 顧氏
の4氏で、いずれも揚州呉郡を本籍としていたのですが、上記のようにまとめて端的に各氏の特徴を表現する文章を初めて目にしました。
各氏の代表的人物と業績を振り返ってみると…

◇◆張氏◆◇
張氏の代表的人物は、張温です。
荊州失陥(219年)~蜀の東征(221、222年)にかけて、劣悪だった呉蜀の外交関係。
その関係修復を、鮮やかな弁舌で見事成し遂げた呉を代表する名外交官が張温。
まさに張温は、文官として『正史』に名を燦然と輝かす「張文」に恥じない人物でした。
ちなみに、“頑固じじい”張紹や張紘は、「呉の四姓」の張氏とは無関係です。

◇◆朱氏◆◇
朱桓や、朱桓の同族・朱拠を輩出した朱氏。
朱桓は呉国防衛の要・濡須の総督として、曹仁率いる数万の大軍をわずか5千で撃退するという大功をぶち立てた武将。
その後も武勲を重ねて、たとえ呉軍が撤退するときも朱桓が殿(しんがり)にいる際は魏軍が恐れて追撃できなかった…という程の武名を馳せました。
これまた、まさに「朱武」に恥じない経歴を誇っています。
ちなみに、孫呉の古参武将である朱治や朱然は「呉の四姓」の朱氏とは無関係です。

◇◆陸氏◆◇
陸氏といえばこの人、陸遜でしょう。
「夷陵の戦い」で火計を用いて蜀の東征軍を撃退したり、丞相を務めたりと、軍事面でも政治面でも孫呉の重鎮であり続けた名将。
さらに陸遜の息子・陸抗も、父に勝るとも劣らない名将。
陸遜の死後荊州南部で軍を指揮し、魏将・羊祜らの侵攻を度々防いで孫呉の命脈を保ち続けました。
このように陸氏は、孫呉において類まれな忠義と活躍を見せつけるのですが…「陸忠」と評されるには、陸氏と孫氏の暗い関係に光を当てる必要があります。
陸遜の一世代前である陸康の代に、陸氏一族は孫策によってその半数を殺害された経歴をもちます。
さらに陸遜は、孫権の晩年に吹き荒れた孫呉の後継者問題に巻き込まれて流罪となり、孫権によりいびり殺されることになります…。
一族の悲劇を飲み込んでの陸遜の「忠」、さらに父・陸遜の悲劇をもグッと飲み込んでの陸抗の「忠」…その壮烈さが「陸忠」たるゆえんです。

◇◆顧氏◆◇
顧氏を代表するのは、顧雍です。
彼には華やかな戦歴や功績が一見少ないのですが、孫呉の2代目丞相として19年間務め上げた政権の重鎮でした。

・(孫権が顧雍を評して)「顧君はものをいわぬが、いえば必ず的を射る」
・その言葉や顔つきはおだやかであったが、正しいと思うところを主張して譲らなかった。
(いずれも『呉書』「顧雍伝」)

といったところから誠実かつ重厚な人格、家風により孫権の信任を得ていたことがわかります。
温厚篤実…「顧厚」とはよくいったものですね。

以上、「張文、朱武、陸忠、顧厚」をそれぞれ見てみましたが、改めて上手いこと評するなぁ…と、人を見る目のない私はひたすら感心しきりです。

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[ 2005/05/15 13:48 ] その他雑談 | TB(0) | CM(1)

萌えろ曹仁 

週刊モーニング連載の『蒼天航路』、毎週木曜日を楽しみにしているんですが、関羽VS曹仁の樊城攻防戦、萌えますね。
萌え萌え。
『蒼天航路』では一時オッチョコチョイの武力バカみたいな描かれ方をされていたりした曹仁ですが、最近彼のことが無性に気になっても夜はグッスリ寝られます。
なので興味本位で『正史』を紐解いて、彼の戦歴を再度洗い直してみました。
すると…やっぱり気になっていた通り、曹仁はかなり奥の深い武将だなぁと実感するに至った次第です。
今回は、曹仁の戦術面における武将としての奥深さを共有させてもらいます。

曹仁と聞いて、まず思い浮かぶのが筋金入りの騎兵の使い手。
呂布麾下中原最狂の騎兵隊を吸収し、機動力を活かした電撃戦を十八番とした曹操ですが、曹仁はそれ以前から騎兵隊を駆使して数々の武勲を挙げています。
本家本元の呂布軍騎兵隊をも撃破した経験があるのですから、その運用手腕は並大抵ではありません。
曹操の旗下に馳せ参じる以前、無頼の若者1,000人程を引き連れて揚州北辺で暴れていた頃に、自然と身につけた技能なのかもしれません。
また天下分け目の官渡の戦いでも、袁紹より派遣された韓荀や劉備らの後方攪乱部隊に対して曹仁は騎兵隊を率いて迅速に各個撃破し、さらに深く袁紹軍の兵站を破壊する勲功をも挙げています。

このように、曹操軍お得意の電撃戦の申し子のような曹仁。
…なんですが、彼のスゴイところは、それだけではありません。

機動力を活かした電撃戦を得意とする曹仁には似つかわしくないようにも思えるのですが、籠城戦における一所懸命な粘り強さは特筆に価します。
赤壁の敗戦後に荊州南部へ雪崩れ込んできた呉の周瑜を、約1年に亘って釘付けにした「江陵の籠城戦」。
そして、関羽による怒涛の北上と漢水の大氾濫をも跳ね返し、逆に関羽を死に追い込んだ「樊城の籠城戦」。
曹仁にとって恐らく初めての本格的な籠城戦であった「江陵の籠城戦」は、結局周瑜の大兵力や策略の前に敗走するという形になりはしました。
しかしこの経験が、曹操に遷都をも迷わせた関羽の大進撃を食い止めるという大金星を挙げる土台となったことは間違いありません。

赤壁の戦いを境に、前半は騎兵隊を駆使した機動戦、後半は粘り強い籠城戦という極めて異質な2つの戦術を血肉とした三国志の世界でも稀有な人材…それが、曹仁。
原野においては騎兵隊による無類の強さを発揮しながら、「下邳の籠城戦」で如何なく凡将っぷりを示した呂布とは大違い。
恐らく曹仁と呂布との違いは、一戦一戦の経験を血肉にしようとする誠実さ、堅実さ、有能な部下の献策を積極的に実行する決断力の違いにあったんじゃないか?と考えます。
戦いを重ねるほどに強さを増す曹仁…「呉下の阿蒙」ならぬ「魏下の阿仁」、「男子3日会わざれば刮目して見よ!」って感じでしょうか。
君主たる曹操にとっては、メチャクチャ重宝する人材だったろうなぁ。
萌えるゼ、曹仁。


[ 2005/05/03 10:08 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)

五石散~貴族文人の常備薬(アッパー系)~ 

こんにちは。
近年稀に見る大型連休となったGW、みなさんいかがお過ごしですか?
私は、これから出勤ですよ…「GW」=「Get to Work(仕事しろ)」ですよ。

さて、何晏関連の記事の続きです。
何晏といえば…
★「正始の名士」と呼ばれる玄学(老荘学)清談の創始者
★当時の貴族文人界、宮廷サロンにおけるカリスマ
★泣く子も黙る色白系美男子兼ファッションリーダー
…と、当時及び以後の中国文化に多大な影響力を与えた男闘呼。
そんな彼が愛用していたもの…それは、ドラッグです。
「五石散」という名のアッパー系のドラッグなのですが、「あの何晏がキメちゃってるんだって!」ということで、瞬く間に貴族階級に浸透します。
ついには、魏末以降大流行した「清談」に臨む際は五石散を服用するということが、魏晋南北朝時代の貴族文人界におけるデファクトスタンダードになってしまいます。
ドラッグ天国。
ダメ。ゼッタイ。
ラヴ&ピース。

今回は、何晏がブームに火をつけて以来、約500年間に亘って魏晋南北朝時代の思想、文学界と切っても切れない存在であり続けた「五石散」について、医薬品の取説風に解説してみようと思います。
ポンピン。

【効能】
健康の増進、疲労の解消、精神の高揚、不老長寿、美容、インテリゲンチャ的ステイタスシンボル
【成分】
5種類の鉱物(石鍾乳・石硫黄・白石英・紫石英・赤石脂)、ヒ素
【用法・用量】
粉末状の五石散を、適量の酒で服用してください。
【ご注意】
★服用後、発熱、皮膚の炎症、幻覚症状、錯乱、被害妄想、失明、手足のむくみ、四肢のだるさなどの副作用が表れる場合があります。
★とくに発熱は強烈なため、服用後は必ず「散発」または「石発」といわれる散歩をして熱を発散してください。
散歩の他には、冷たいものを食べたり、多量の水を飲んだり、冷水を浴びたり、冷たい石の上に坐ったりして熱を発散してください。
★温かいものは、酒以外は絶対に飲食しないでください。
★まれに服用による中毒死が見られます(3世紀から8世紀の間に数百万のかたが亡くなられています)。

とっても興味深い、五石散。
753年に来日を果たした鑑真が持ち込んだ多種の医薬品に、この五石散も含まれていたようです。
一部情報では、今でも奈良の正倉院に、鑑真が持ち込んだ五石散が所蔵されている模様。
是非とも一目お目にかかりたいものです。
そして、あわよくば服用してみて、バッキバキにキメてみたい…。

[ 2005/05/01 09:35 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)
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