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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

「魏諷の乱」の裏側 ~第2回 魏諷のプロファイル~ 

前回の記事で「魏諷の乱」にして3つの問と、3つの推論を提示したのですが、今後数回に亘って順番に補足をしていきたいと思います。

Q1.魏諷はなんで叛乱なんか起こしたの?
A1.自らの扇動能力を過信して、歴史の表舞台に躍り出る機会を作り出したかったということに尽きそうです。


何気に一番わかりやすそうで、一番資料が少なくわかりにくいのがこの問のように思えるのですが…まずは「魏諷の乱」の「魏諷」って誰よ?というところから。

◇◆魏諷って誰よ?◆◇
魏諷(ぎふう)、字は子京(しけい)。
本籍地は沛(現江蘇省沛県)というから、乱世の姦雄・曹操の本籍地からごく近所…何だか意味深。
彼は民衆を巧みに扇動する才能があり、その巧みさときたら魏都・鄴をゆり動かすほどだったそう。
「巧みに扇動する才能」…魏諷に関する数少ない記述の中で、彼のシルエットを描き出すために最も影響力の大きな表現。

浮かび上がるのは、強烈な「アジテーター」としての魏諷。

著名なアジテーターといえば、ヒトラー毛沢東西部邁etc.そんなイメージの魏諷…って逆にイメージしにくいですか?
いずれにしろ、私が考えるアジテーターに必要な力は、他者そして取り巻く環境への鋭敏な洞察力、洞察したことを表現するための弁舌、機智、加えて演出家にして演者としての才能、それらすべてを包括した人を惹きつける魅力。
そういった才を見込まれて、魏(当時はまだ、後漢朝内の一国に過ぎない)で総理大臣的地位にあった鍾恕マに直接召されて、出仕することになります。
このエピソードから、当時、魏諷が魏の首都でかなり名の売れた人物であったこともわかります。
出仕後に魏諷が就いた職は、西曹掾という「総理府の官吏採用担当」のような重要ポジション。
「扇動する才能」という他者との関係性における特異な才能を、政治の中枢における「人事担当」として活かされることを嘱望されていたのでしょう。
しかし、彼は嘱望されたこととは裏腹な思いを胸に秘めていました。
曹操の遠征軍がまだ魏都に帰還しないうち、張繍の息子・張泉、王粲の2人の息子、宋忠の息子といった「高官級の2世たち」を得意の才能でひそかに巻き込み、魏都・鄴を襲撃しようと計画していたのです。

なるほど、魏諷は優秀なアジテーター(扇動者)でもあり、オルガナイザー(組織者)でもあったってことですね。

219年9月…しかし襲撃を約した期日より以前に、同志のひとりである陳禕(鄴にある宮殿のひとつ長楽宮の護衛隊長)がおじけづいてしまい、襲撃計画を曹丕にチクり、結果魏諷らはあえなく処刑され果てました。
魏諷のクーデター未遂に連坐して殺された者は数十人にのぼったとも、数千人に及んだともいわれます。
数千人…この数の多さは、「失敗者」魏諷のもつアジテーターかつオルガナイザーとしての能力を皮肉にも立証することになります…ね。
(以上、『魏書』「武帝紀」、『三國志集解』、『資治通鑑』より)

勝手ながら、ボンヤリと魏諷の輪郭が見えてきた感じがします。
次回は、上述した魏諷の輪郭を当時の魏諷評でよりはっきりとさせつつ、時代背景を重ねたりしながら第1の結論へ導いていきたいと思います。
…何だかこのシリーズ長くなりそうです…。

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「魏諷の乱」の裏側 ~第1回 魏諷のように青臭く~ 

最近、恥ずかしげもなくDef Techへヴィーローテーション中です。
日本人と外国人(ハワイ出身)の2MC
♪地に足付け 頭雲抜け 進む前に前に前に…♪
ですって。
しかも、妙に共感したりして。
Def Techしかり銀杏BOYZしかりサンボマスターしかり…年を重ねるにつれて青臭さへの共感は高まるばかり。
逆に、昔のような気持ちをストレートにぶつけるでない、なんとはなしに小難しくなったweezerの新譜はイマイチしっくりこず。
現実は甘くなかったりしますが、少なくともこのBLOGではストレートに青臭くぶつかっていきたいです!
YATTA!

ということで、長い前置きに続き本題。
一部のかたにはネタばれになってしまいスミマセンが…『週刊モーニング』連載中の『蒼天航路』で、いわゆる「魏諷の乱」終わってしまいましたね。
常に感心させられることしきりな『蒼天航路』にあって、「魏諷の乱」の解釈や演出もまた独特だったなぁ…と振り返りつつも、一方で私にとっては「しこり」のようなものが残ってしまいました。
この「しこり」は一体何なんだろう?と思って、働かない頭を何とか働かせてみたところ…

Q1.で結局、魏諷はなんで叛乱なんか起こしたの?
Q2.そして、「高官の子弟ら」はなんで魏諷の乱に加わったの??
Q3.さらに、叛乱を鎮圧した魏にとってどんな意義があったの???


…という3つに行き着きました。
いずれも『正史』などでの記述が少ないため、どう足掻いても事実は闇の中ですが…様々な文献に散らばっている情報をパズルよろしく組み合わせて、自分なりにそれっぽく推論してみました。
軽い自慰行為ですね。
これから何回かに亘って「『魏諷の乱』の裏側」としてお送りしますが、まず最初に私の中で出た一応の結論から。

Q1.魏諷はなんで叛乱なんか起こしたの?
A1.自らの扇動能力を過信して、歴史の表舞台に躍り出る機会を作り出そうとした結果…ということに尽きそうです。

Q2.「高官の子弟ら」はなんで魏諷の乱に加わったの??
A2.間近な施行が想定されていた「九品官人法」という人事制度改革によって、自ら、そして子孫に残す地位が揺るがされることへの脅威を、魏諷に煽られたからというのが最大公約数的な理由だと考えます。
加えて、各人が負う将来への不確定要因を、魏諷によって巧みに突かれたこともありそうです。

Q3.叛乱を鎮圧した魏にとってどんな意義があったの???
A3.来るべき「漢魏革命」(結果としては『魏諷の乱』の翌年220年)に伴い想定される、官僚数激増への対処ができたのではないか、と考えます。
つまり、魏朝政府内における人員・ポストの整理を、最終的には数千人に及ぶ人々を「叛乱参加者」として処罰することで行えたと解釈します。

次回以降、前述の結論に至った経緯とかをダ~ラダ~ラと書いていきます。
ただ、まだ考えが固まりきっていない箇所も多いので、ひょっとしたら結論自体に調整をかけるかもしれませんが、ご愛嬌ということで…。

「陸遜流罪」は誤訳!? 

いきなりですが、私、大興奮中です。
はなぢブーで、ムラムラきています。
これまで信じて疑うことが微塵もなかった「陸遜流罪」について、なんと誤訳疑惑がかけられているそうなんです!
発端は、「呉の四姓」に関する記事に対していただいた通りすがりさんのコメント。

実はですね、流罪にされてないらしいんですよ、陸遜。
これは、ちくま版『正史三国志』における誤訳の内でも、最大級のものの一つ(中学英語の直訳文みたいな言い回しだなぁ)らしいです。
詳しくは「三国志ファンのためのサポート掲示板」の過去ログ、「陸遜の流罪について」(下記URL)をご参照あれ。

陸遜の流罪について
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=689;id=

ちょっとこの疑惑、インパクトデカイです。
私はてっきり顧譚や顧承(顧雍の孫)、張休(張昭の子)らと一緒に、陸遜も交州へ流されてしまっていたものと思っていました…。
そして流刑の地・交州で、さらに孫権から文書で何度も罵倒されつつ憤死したのかと…。
また、陸遜が流罪にされたのとそうでないのとでは、陸遜死後の息子・陸抗の立場にも重大な影響があります。
「流刑」という死刑の一歩手前な重罪を犯した親の子が、普通に親の兵権を引き継ぐ…とは、確かに不可思議ですもんね。

ということで、私のできる範囲で急遽事実を確かめてみました。

1.まずは、私が所持している『正史』BASEで書かれた書籍の洗い出し。
すると、有識者の間でも「陸遜流罪」の記述があるものとないものとが混在しているようです。まっぷたつ。
◇◆「陸遜流罪」に関する記事のある書籍◆◇
・『正史三国志7』P292(小南一郎訳/ちくま学芸文庫)
・『三国志<下巻>』特別付録「【正史編】三国志人物事典」P68(渡辺精一著/学研刊)
・『三國政権の構造と「名士」』P260(渡邉義浩著/汲古書院)
・『三国志新聞』P191(三国志新聞編纂委員会著/日本文芸社)
◇◆「陸遜流罪」に関する記事のない書籍◆◇
・『人間三国志 2軍師の采配』P277(林田慎之助著/集英社刊)
・『三国志<下巻>』P76~78「【三国志人物列伝?】陸遜」(文=久米旺生/学研刊)
・『三国志全人名事典』P370(『中国の思想』刊行委員会編著/徳間書店)
・『三国志?完結なき世界』P255(守屋洋・竹内良雄訳/徳間書店)

2.日本の有識者が混乱しているのならばと、三国志の本場・中国籍のかた(上海在住で、日文がとても流暢かつ言語センス抜群!)に直接確認してみました。以下、抜粋。

関連の中国語のサイトをいくつか調べてみたら、やはり「流徙」の主語は「顧譚・顧承・姚信」の3人であって、陸遜は関係ないという主張が正しいという感じです。
<中略>
私も中国の一般庶民としては、秋風五丈原以降の三国歴史についてほぼ知らないのです。
<中略>
ですから今まで、流罪どころか、私は陸遜の晩年などは全然知らないと言っていいほどです。
(「三国志愛好会」メーリングリストでのやりとりより)

3.そもそも『正史』の中にヒントがないか…と斜め読みしたり、情報収集したりしてみました。
すると、有力な情報をmixiでゲッチュウ!

赤烏8年(245)の春2月、丞相の陸遜が死去した。
(『呉書』「呉主伝」)

この簡潔な記述が、ヒントです。
仮に陸遜が流罪になっていたとしたら、彼が死ぬそのとき、「丞相」という最高位の役職に就いているはずはありません。

んー、私の感触としては「陸遜流罪」は誤訳…というのが、正しい気がしてきました。
でも「結論が出た!」とまではいかないので、この記事をご覧になったかた、是非ご意見を寄せてもらえればと思います!

[ 2005/06/06 00:09 ] その他雑談 | TB(0) | CM(11)

関羽瀬 

こんにちは。
最近仕事以外の情報のINPUTに飢えているUSHISUKEです。

前回「呉の四姓」を取り上げた際に、改めて『正史』の関連箇所を斜め読みしていたときのこと。
陸抗の伝の中にある、以下の記述にハッとしました。

西陵の関羽瀬から白帝城までの地域の軍事の総指揮にあたった。
(『呉書』「陸遜伝」)

「…関羽(かんう)…瀬(らい)??」
文意からそれが地名であることはわかるのですが、あの劉備3兄弟の「関羽」という名前がくっついているのは偶然?
恥ずかしながら、これまでま~ったく気付いていなかった箇所だったので、ちょっと調べてみました。
するとその地名の由来が、『呉書』「甘寧伝」にありました。
「甘寧伝」に曰く…
ときは、215年。
呉蜀が、「荊州帰属問題」に大揺れに揺れていた頃。
荊州南部の益陽(現湖南省益陽市)で、魯粛の率いる呉軍と関羽率いる蜀軍とが、資水という河を挟んで一触即発の対立状態にありました。
ある日、関羽が夜のうちに浅瀬から渡河するという情報が、呉軍に伝わります。
急報を受けて、たちまち主だった将を集め対応策を議す魯粛。
その場で甘寧が
「オレが行って阻止してきちゃるけん!」
と、渡河阻止を買って出ます。
浅瀬の対岸に向け、夜をついて軍を進める甘寧。
関羽は甘寧が急行しつつあることを聞き、結局軍を留めて渡河せずに終わりました。
このことにちなんで、陳寿が『正史』を記している時代もなお(もしくは、その時代に既に)「関羽瀬」という地名が伝わっていた…というものです。

ひとつの浅瀬に対して割かれた文章量。
本来簡潔極まりない文章が特徴のはずの陳寿著『正史』で見つけた、小憎らしい演出と、私は捉えます。
蜀出身の陳寿の想いいれがココにも見え隠れしているようで…何だか気持ちがホンワカしました。
そして、何よりも様々な妄想を掻き立てる「関羽瀬」という地名。
また旅行の虫がウズウズとしてきます…今も残っているんでしょうか?関羽瀬。

[ 2005/06/05 10:20 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)

もうすぐ70,000件です! 

お久しぶりです!
最近またまたまた心を亡くす日々が続いています…。
が、その間にもみなさんからの熱いアクセスをいただき、本BLOGももうすぐ70,000件に達しようとしています。
ということで、恒例の70,000件アクセスプレゼントキャンペーンを実施します!
20,000件目アクセスのshinさん以来、とくに手を挙げていただいたかたがいないので…プレゼントは温まっていますよ。
それでは、70,000件目アクセス踏んだかたは、メールかコメントにてよろしくお願いします!

なお、更新が滞っているながらも、現在考えているネタを少しご紹介します。
★通りすがりさんからいただいたコメント「陸遜は流罪になっていなかった!?」について
★粋な地名「関羽瀬(かんうらい)」
★「魏諷の乱」の裏側
★小泉改革ならぬ「曹爽改革」
★曹爽改革と絡みつつ何晏第3回

といった内容でお送りします。
乞う小期待!

[ 2005/06/04 12:06 ] その他お知らせ | TB(0) | CM(0)
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