随分と日が経ちましたが…「『魏諷の乱』の裏側」の続き再開します。
前回は第5回目まで進んでいたので、今回は第6回目。
クーデターの首謀者・魏諷が突っついたであろう、クーデター参加者各人が抱えていた「乱への参画の芽」について細かく触れていこう…というものですが、今回は張泉を取り上げます。
「魏諷の乱」でしかその名を歴史に留めていない張泉…そんなどマイナーキャラの彼は、とはいっても死後「侯」に列せられる程の厚遇を受けていた張繍の息子でした。
そんなバリバリの2代目である張泉が抱えた「乱への参画の芽」とは??
◇◆張泉の場合◆◇
張泉が抱えていた将来への不確定要素…それは、父親・張繍の時代から続く王太子・曹丕との不仲。
張繍の時代から続く曹丕との不仲の原因…それは、197年、いまだ張繍が曹操と敵対していた頃まで遡ります。
当時荊州北部一帯をフラフラしていた流亡の飢餓軍団・張繍とその一行は、南下の気配を見せた曹操に降伏。
張繍の根城だった宛城に進軍した曹操はそのまま無血入城し、つかの間の休息をとっていました。
休息中に曹操は張繍の叔父・張済の未亡人と、萌え上がるような背徳のアヴァンチュールを愉しんでいました。
それはもう、とても文章にはできかねるような
アンナことやソ、ソンナことまで…鼻血ぶー。
と、そのとき!
張繍は、曹操の寝込みを急襲。
曹操自身は手傷を負いながらも九死に一生を得ることができましたが、長男・曹昂をはじめ典韋など多数の有能な人士を殺害されてしまいました。
曹魏にとって苦すぎる戦歴…直接経験した訳でもない曹丕でも、この事件のことはとくに根にもっていたようで
五官将(曹丕)は…腹を立てていった、「君は私の兄(曹昂)を殺したくせに、どうして平気な顔をして人に会えるのだ」張繍は内心不安を感じ、そこで自殺したのである。
(『魏書』「張繍伝」)
という、『噂の真相』的な怪しげな風説も流布する始末だったようです。
しかし、曹丕に限っては「噂」「風説」で片付けられそうになく…どうも曹丕には、性格的にこの種の「ねちっこさ」が実際あったようです。
文帝は若いころに借財を申し込んで思いどおりにいかなかったので、ずっとそれを根にもち、けっきょく、曹洪の食客が法を犯したことを口実に、獄に下して死罪に付そうとした。
(『魏書』「曹洪伝」)
皇族である曹洪にすら
牙を剥く異様な執着心、強力な粘着性を誇るねちっこさ…これは、本物です。
217年に正式に王太子に立てられていた曹丕は、近い将来必ず魏王・曹操を継いで王位に就きます。
将来主君として仰ぐべき人物と、先代から延々約22年間続く不仲を抱える張泉…。
普通に考えても今後の出世は難しく…いや出世どころでなく、とくに曹操の代では厚遇を受けていただけに、一族の没落こそ容易に想像できる状況。
このことこそが、魏諷に付け入られる隙を生み、張泉がクーデターへ参加するに至るひとつの理由だったと考えます。
哀れ張泉…浮き足立った
造反組に未来はなかったということでしょうか?
次回は、「魏諷の乱」の参画者「宋忠の息子」という、正確な名字すらも伝わらないど・どマイナーキャラにスポットを当ててみたいと思います。
AUTHOR: 如月 雪
URL: http://mirakako.exblog.jp/
DATE: 09/21/2005 10:22:44
こちらでは初めまして!先日は拙ブログにご訪問頂き有難うございます!
‘魏風の乱’は現在連載してある『蒼天航路』で初めて知りました。
他の著書で探してみたのですが、なかなか詳細な資料が無いな~と思っていたところにUSHISUKE様のブログで見つけました!!
次回の「宋忠の息子」も楽しみにしています!
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