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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

第1回横山光輝「三国志」検定受検レポ 

11/7(日)晴天の中「第1回横山光輝『三国志』検定」を受検しに、上智大学へ行ってきました。
教室案内に表示された受験番号を見てみると、東京会場は、2、3級あわせてユニーク数400名前後といった感じだったでしょうか。
私は「三国志検定」のように「第2回」で難易度が上がるのではないか?と畏れて、2、3級併願初回突破を図ったのですが…甘かったです。
「三国志検定」とは一味違った横山光輝『三国志』ならではの難題珍問が散見し、まさに「げぇっ」という感じでした。
また2級と3級とでそれほど難易度の違いを感じることがなく、相対的に3級が難しい感じを受けました。
ということで、2、3級計200問のうち2級から5問ほどを以下抜粋してみます。
受検後有志6名で答え合わせをした際にとくに解答が判然とせず、自宅に帰ってコミックを読みなおしてみた、私にとっての「むむむ」な難題珍問たちです。
この記事の最後に記した「正解」間違っているかもしれません(間違っていたら指摘してください)…が、「横山光輝『三国志』検定」を受検していない方もちょっとチャレンジしてみてください。
検定の雰囲気を味わってもらえるかと思います。

=====
問1.ともに初登場時は丘の上にシルエットで現れ、勇猛ぶりを見せつけた趙雲と許褚。次の文ア~エのうち、許褚に当てはまる組み合わせをa~dから1つ選べ。
ア.馬に乗っていた。
イ.豪快な蹴りを決めた。
ウ.敵の槍を飛び越すジャンプ力を見せた。
エ.再登場時は道端で寝転んでいた。

a.アとイ
b.アとウ
c.イとウ
d.イとエ

問2.次のうち、間違っている文を1つ選べ。
a.夏侯惇が負傷したのは左眼である。
b.馬超は韓遂の左腕を斬り落とした。
c.関羽が華佗の手術を受けたのは左腕である。
d.横山先生は左利きである。

問3.横山三国志で、顔良文醜の関係は次のうちのどれか。
a.兄弟
b.従兄弟
c.親友
d.好敵手

問4.奇襲の成功例として横山三国志のナレーションに登場する日本史上の事件は、桶狭間の合戦。では、横山三国志の章タイトルになった日本史上の事件は何か。a~dから1つ選べ。
a.川中島の合戦
b.関ヶ原の合戦
c.中国大返し
d.水師営の会見

問5.このシーンで玄徳が怒っているのはなぜか。a~dから1つ選べ。
横山光輝「三国志」検定
a.劉表を裏切りたくないから
b.徐庶を母のもとへ行かせたいから
c.張飛が孔明の家に火をつけると言ったから
d.祟りを家来に肩代わりさせろと言われたから
=====

いかがですか?
他にも思わずニンマリしてしまうような出題も多々あり、難しいながらも楽しめる検定でした。
合否通知は12月下旬とのこと…楽しみなような、楽しみでないような。

そういえば、11/14(日)に開催される「三国志街道の集い」では、「横山光輝『三国志』検定勝手に???答え合わせ」をやるようです。
受検者もそうでない方も参加してみてはどうでしょう?(私は参加予定です)
http://tabihatsu.jp/program/74556.html
公式芸人であるお笑いコンビ「カオポイント」のおくまんさんと、三国志研究家の満田剛先生の解説やらお話しやらが楽しみです。

[(多分)正解]※独自勝手調べなので、正解の保証はありません…。
問1:a 問2:d 問3:a 問4:b 問5:b
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[ 2010/11/08 01:49 ] 三国志検定 | TB(0) | CM(2)

荊州の学 

三国志お友だちの朝霧紅玉さんがツイッターで、「荊州学」や加賀栄治先生の著書『中国古典解釈史 魏晋編』に触れていたので、ちょっと触発された記事を垂れ流します。
さっさとしないと記事UPの熱が冷めそうなので、補足をすっ飛ばしたり、推敲が甘甘だったりする乱暴な記事です。ご容赦ください…。
※そういえば「三国志感謝祭」あたりからこういう触発、関連系記事が多いですね…受身。

個人的に諸葛亮への理解を深めるという目的で、以前ある会合にあわせて「荊州の学」をちょこっと調べたことがあります。
そのときに加賀先生の同著を図書館で借りて拝読して、非常に参考になりました。
「荊州の学」の前後史や特徴に関して、私の理解、解釈は以下のような感じです。

荊州の学
[参考]『中国古典解釈史 魏晋篇』(加賀栄治著/勁草書房)

大筋を捉えているつもりですが…当時における「荊州の学」は儒学的にも通利の学的にも先端をいく(もしくは流行の)学問だったと認識しています。
かつ、何晏王弼らの「玄学」、杜預の「左伝集解」、反鄭玄的な王粛説など、後世にも多大な影響を与えることになります。
推定10年にも満たない活動期間でまさに「一瞬の光芒」にも似た「荊州の学」は、荊州への人士の大量流入、とくに劉表に招かれて荊州での学問振興に尽力した宋忠王粛の師)ら、在野で「襄陽サロン」とも称されるグループを形成した司馬徽らに代表される儒者の流入と、龐徳公ら地元の有力者の結合とによって成された偉業ともいえるんじゃないでしょうか。
[参考]WEBサイト『黄虎洞』「襄陽サロンと荊州人士」
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/ryuuhyoutojyouyou.html

ちなみに上図中の
王粛杜預的な流れ 「左伝」における管子>桓公
何晏夏侯玄王弼的な流れ 夏侯玄楽毅論
は、加賀先生の著書とはまったく関係がない、私のメモ書きのようなものです。
諸葛亮のアイデンティティに想いを馳せるうえで、管仲(管子)と楽毅とは欠かすことができません。
管仲や楽毅に対する諸葛亮の解釈、評価と、荊州時代に関わっていただろう「荊州の学」とを結びつける接点を見出したいと思っています。
「管子>桓公」に関しては、「公羊伝」「穀梁伝」といった他系列の「春秋」と比較した際に「左氏伝」では「春秋五覇」桓公よりも宰相として補佐した管仲の業績を高く評価している…的なことを、『春秋左氏伝―その構成と基軸』(野間文史著/研文選書)という書籍を立ち読みした際に目にしたので、掘り下げる際の目安になるかなぁ…とか。
夏侯玄「楽毅論」に関しては、夏侯玄による楽毅の再評価と、学者・夏侯玄の構成要素の重要なひとつとしての玄学、及び源流としての「荊州の学」の影響とを結びつけられないかなぁ…とか。
夏侯玄の「楽毅論」の邦訳を親切な方がネットで公開してくださっているので、ぜひ一読してみてください。
[参考]WEBサイト『方壺島』
http://homepage.mac.com/two_yossy/fang-hu_island/05-zatsubu/01-gakkiron/001-0-gakkiron_01.html
三国志な時代の世間一般の楽毅評価は極めて低かったことが、「楽毅論」から透けて見えます。
だとすると、諸葛亮が自らを楽毅に比した意味って?
楽毅の再評価は夏侯玄独自の解釈ではなく、既に「荊州の学」の解釈上では楽毅評価が高かったとも考えられないか、とか。

「とか」とか「的」とか曖昧表現を多用して恥ずかしいですが、こんなところで垂れ流し終了です。
明日の「横山光輝『三国志』検定」に向けて勉強でもしようっと。

※最後に、宋忠の『演義』での扱いは気の毒としかいいようがないです。
曹操の降伏の使者になったはいいが、劉関張3兄弟に見つかり、挙句には血祭りにされかねない状況になり…史実ベースだとそんなションボリな人物ではないような。
[ 2010/11/06 09:07 ] その他雑談 | TB(0) | CM(2)

「三国志感謝祭」覚書-呉の貨幣政策 

10/30(土)に開催された「三国志感謝祭」の覚書第2弾です。
前回触れた「『蜀地方』における仏教」のほかに、もうひとつ私の関心事と重なる質問がありました。
「呉の貨幣政策」に関する質問です(厳密には「インフレ」という表現でしたが)。
触れだすと長ーくなりますし、まだ私も調べている真っ最中だったりしてまったく完全ではなかったりしますが、一旦概要だけ覚書として残しておきます。
誤解がないように補足しますが、この記事は当日の内容ではなく、当日の内容をきっかけに私が勝手気ままに書いていることなので、悪しからず。

☆★呉の貨幣鋳造の歴史★☆大泉當千

222-236年(黄武-嘉禾) 「大泉五十」銭鋳造
236年(嘉禾5年)       「大泉五百」銭鋳造
238年(赤烏元年)       「大泉當千」銭鋳造
245年(赤烏8年)※推測   「大泉二千」「大泉五千」銭鋳造
246年(赤烏9年)       大銭鋳造、全廃。以後大銭鋳造なし

ポイントは2つです。
1.呉の貨幣鋳造の歴史は、孫権が皇帝に即位した後の約10-25年という期間に過ぎない。
2.呉における鋳銭はすべて額面が大きな貨幣のみ(「大銭」といいます。基準銭は「五銖銭」)。かつ、五十から五千まで額面は大きくなる一方。
※ちなみに「呉には鄣郡(会稽郡あたり)の銅山があり」(『漢書』荊燕呉王伝)、鋳銭の材料となる「銅」は前後漢代を通じて採掘が可能だったと考えられます。
上記『漢書』の引用箇所は、前漢代に起こった「呉楚七国の乱」の中心人物・呉王劉濞が、銅山を活用した鋳銭権の濫用を行っていた記事の一部です。
『劉邦の大風歌 漢建国記』という中国ドラマの第40、41話あたりで「呉王(劉濞)の公金横領」とか「鋳銭権の濫用」として登場するので、お近くのレンタル店にあったら借りてみてください。
http://www.clubit-arena.net/ca/titledetail.php?filename=D-EC141
※画像は私所有の「大泉當千」実物です。直径約34mm。

☆★呉の貨幣政策の解釈★☆

[大銭鋳造の理由]
財政補填のため。
財政収入の拡大を企図したものでした。
「大銭鋳造」が意味するところは、少ない財源で多額の貨幣を鋳造発行し、基準銭で買える以上の物を社会から買い上げようとしたというものです。

[貨幣政策の評価]
失敗。
『呉書』呉主伝によると、大銭を鋳造した理由は「貨を広くす」と言い、廃止の理由は「民意以て便と為さず」と言っています。
「貨を広くす」とは、通貨不足に対処して貨幣総額を拡大することを指します。そして「民意以て便と為さず」とは、大銭は民衆(主に商人)に受容されず、額面どおりに流通しなかった(減価していた)ことを指します。

つまり、とくに大銭発行失敗の原因は以下の2つに集約されます。
1.社会に受容されなかったこと
2.減重(貨幣の重量が徐々に軽くしてしまう/なってしまうこと)による貨幣価値の低下

貨幣の流通には、背景としての社会的な信頼が欠かせません。
貨幣が社会的信認を受ける方法は、発行した大銭を政府が必ず回収することです。
つまり、額面どおり国庫に通用する保証を与えること=租税などで納入される大銭を受け取ることなんですが、国家が高額面の大銭を受け取るのは、放出する際とは反対に損失になります。
なぜなら、「大銭」の基本的な性格として、基準銭の価値と重量に比例した額面と重量とを備えていないからです(この性格は呉の「大銭」に限ったものではありません)。
「五銖銭」は「5銖」という重さを名称の由来とした貨幣ですが、呉での基準銭はこの五銖銭だったと考えられています。
呉で鋳造された「大泉五十」の重量は「12銖(約8g)」で、「大泉當千」の重量は「16銖(約11g)」です。
名称は50枚に値する(五十)、1000枚に値する(當千)でありながら、重量的にはまったく比例していないのです。
五銖銭も当時は減重しているので厳密ではないですが…イメージとしては以下のような感じです。

五銖銭3枚ほどの価値しかない貨幣を「50枚に匹敵するんだ!」として政府が新貨幣を発行します。
すると、五銖銭を発行するよりも五銖銭47枚分の儲けが政府に発生します。まさにボロ儲け。
でも、五銖銭50枚分の税金を新貨幣1枚(実質五銖銭3枚分の価値)で納めると、政府は実質五銖銭47枚分損することになります。ボロ損。

こういうわけで、政府としては放出時は大銭により大儲けができるのですが、いざ回収となると大損してしまうのです。

上述のように
■基準銭で納入させ、それを原資として改鋳し大銭を鋳造する
■大銭を回収し、社会的な信認を得る
というのは大銭発行が抱えるジレンマであり、このジレンマを克服して、政府が大銭を回収してこうむる損失を防ぐ手立ては
1.大銭の減重を実行する
2.さらなる高額面の大銭をつくる
のいずれかぐらいしかないのです(根本的な解決にはまったくなりませんが)。
呉が徐々に高額銭を発行したのは、上記「2」の手立ての実行です。

はっきり言うと、呉の大銭鋳造は当初から結末が見えきっている「場当たり的な失策」でしかなかったのです。
それでも孫権の偉いところは、そんな失敗が約束された貨幣政策を被害が甚大になる以前に見切って二度と同じ轍を踏まなかったことでしょうか。

[参考文献]
『中国銅銭の世界 銭貨から経済史へ』(宮澤知之著/思文閣出版)
『貨幣の中国古代史』(山田勝芳著/朝日新聞社)
[ 2010/11/03 15:40 ] 08:貨幣政策覚書 | TB(0) | CM(0)

「三国志感謝祭」覚書-「蜀地方」における仏教 

10/30(土)は新宿ロフトプラスワンで開催された「三国志感謝祭」に参加。
約3時間(+有志で朝まで…)どっぷり三国志な世界に浸ってきました。
加藤徹先生や満田剛先生という三国志に造詣の深い両研究家をはじめ、「三国志大戦」でおなじみのこままりえさん、サマソニなどで大活躍のおもしろ三国志さん、そして主催者の三国志活動家 坂本和丸さんらによる観客参加型のトークを中心に、おもしろ三国志さんの凱旋ライヴ(アンコール付き!)やレンタル開始のドラマ『三国志』特別上映などなど、盛り沢山の内容でお腹いっぱいになりました。
「三国志感謝祭」の詳細な内容は参加者のみなさんが各々書かれているので、私はとくに当日質問として出た「三国志な時代の仏教、とくに『蜀地方』における仏教」に関して、私の知る限りのことを列挙してメモとして残しておこうかと思います。
私も当時の仏教については少なからず興味があります。
なぜなら文献や出土品から、中国に伝来した最初期の仏教に触れることができるのが、後漢時代であり、三国志な時代だからです。
私が自宅に蔵している展覧会の図録や、書籍から、とくに「蜀地方」で頻繁に出土する「揺銭樹」に見られる中国最初期の仏教の有り様について触れてみようと思います。

揺銭樹とは?

後漢から三国時代、三国では蜀にあたる四川地域特有の副葬品。神獣が浮き彫りにされた陶製の台座に、青銅製の枝が取り付けられ、枝の天頂には朱雀が、枝には天上世界を思わせる西王母や一角獣などと共に、漢代に流通していた「五銖銭」が枝全体に所狭しとあしらわれている。
揺銭樹1
緑釉当座銅揺銭樹/墓に副葬する銭のなる木
後漢(25-220)
1983年8月、四川省広漢市万福獅象村出土

揺銭樹全体の高さ152.0cm、台座:高48.0cm
広漢市文物管理所

大三国志展』(2008年東京富士美術館)図録掲載


これは『大三国志展』でも展示されていた「国家一級文物(日本の国宝に相当)」に関する解説の抜粋です。
揺銭樹のオーソドックスな形態だと思われます。
このような揺銭樹の一形態として、「仏像」が配されたものが出土しています。

揺銭樹とは、死後の富貴や繁栄を願って墓に埋葬された副葬品で、後漢から三国時代にかけて、現在の四川省、陝西省、雲南省など中国西部で流行した。揺銭樹は本来、中国古来の神仙思想に基づく西王母などの図像を伴うが、そこに仏像も表されるようになった。
この作品は、陶製の台座上に揺銭樹の幹が伸び、その頂部に仏坐像を浅く浮彫する。幹には熊や大きな璧がつき、枝には銭や仙人など神仙世界を示す図像がみられる。
揺銭樹に仏像を表す場合、この作品のように頂部でなく樹幹に配する例が多く、その仏像は口ひげをつけ、通肩に衣をまとったガンダーラ風に作られる。本作品の仏像は、やはり一見ガンダーラ風だが、衣の襟元に放射線状の文様のあることや、腹前の円形の刻線表現が特異である。なお、写真の面は左手が施無畏印(せむいいん)、右手で衣の端をつかむが、裏面は左右が逆になる。
揺銭樹に表わされた仏像は中国に現存する遺品としては最古に属し、仏教伝来の初期に仏像が神仙と同様のものとして受容されたことをうかがわせる遺品として非常に重要である。
揺銭樹2揺銭樹3
仏像付揺銭樹
銅、陶製
現存高93.5、台座+樹幹81
陝西省城固県出土
後漢時代・2-3世紀
城固県文物管理所

『中国国宝展』(2004年東京国立博物館)図録掲載


写真を拡大して見てください。
口ひげが特徴的なガンダーラ風仏像の彫像です。
陝西省城固県とは漢中市から約3、40kmの地域です。
最初期の仏教がシルクロード経由で伝来したと考えると、漢中市という土地柄は伝来の途上もしくは少し離れた沿線上にあると捉えられるでしょうか?
仏像が配された揺銭樹は、他にもあります。

彭山は四川省成都市の南郊に位置する。この作品も後漢時代の墓から発見された。
中央に坐仏、仏の両脇に胡服を着た1対の人物を表わし、下に璧と思われる円形飾りをはさんで龍虎が向かい合う。仏は通肩に衣をまとい、おそらく右手は施無畏印を結び、左手は衣をつかんでいたのだろう。頭部は、地髪部に縦線、肉髻は横線を刻んで頭髪を表わしている。肉髻に横線を入れるのは、インド、マトゥラーでクシャーン朝(1~3世紀)に作られた初期仏像の巻貝形肉髻を思い起こさせるが、着衣形式や印相、地髪部に毛筋を刻むやり方などは、同じ時代のガンダーラ仏を手本としたとみる方が自然であろう。
現状は後ろ部分を欠損し、また下部にも欠損があると考えられ、当初の形状は明らかでない。彭山崖墓で出土した銅製品は非常に少ないが、この台座の出土した116号墓では、同姓の揺銭樹断片がわずかであるが見つかっている。このように、現存遺例からみた中国最初期の仏像は、仏教寺院ではなく、墓から副葬品の一部として見つかっている。
揺銭樹4
仏像付揺銭樹台座
陶製
高21.3
1942年、四川省彭山県116号墓出土
後漢時代・2-3世紀
南京博物院

『中国国宝展』(2004年東京国立博物館)図録掲載


こちらは成都近郊から発見された、仏像が配された揺銭樹の台座です。
シルクロードを前提にすると漢中市よりも明らかにルートから離れた場所での出土です。
「蜀地方(現四川省)」での出土であることから、伝来ルート上の狭域的な事象ではなく、当時の人々の宗教・信仰に何らかの影響を及ぼした結果が表れていると考えても差し支えないのではないでしょうか。
また、個人的に興味深いのは明らかに「三尊形式」で形作られていること。
この三尊形式も、巻貝形肉髻と同様にインド、マトゥラーにおいて見ることができるそうです。
初期ガンダーラでの脇侍は帝釈天と梵天だそうです。
この出土品ではたしかじゃありませんが、伝来の形を推測するのには面白い材料なんじゃないでしょうか。

最後に、書籍からまとめのお言葉を拝借。

中国流伝初期の仏教は、黄老思想や神仙思想を媒介とし、またそれらに依附して中国社会に広まった。つまり、この揺銭樹にみられる変化は、古代中国の宗教・信仰の変化に即したものであったとみてよい。このように、この坐仏揺銭樹はきわめて興味深い研究材料を提供しているのである。
(『貨幣の中国古代史』山田勝芳著/朝日選書)


[ 2010/11/02 01:48 ] 仏像見立て三国志 | TB(0) | CM(0)
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