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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

「夏侯惇」の読みについて-後編- 

前回に続いて、今回は「夏侯惇」がいつから、どんなきっかけで「かこうとん」と読まれるようになったのか?を中心に述べていこうと思います。
前回は『通俗三國志』や『諸葛孔明鼎軍談』といった江戸時代の作品に触れてきたのですが、一気に時代が移り変わって昭和の「三国志」作品たちが今回の主役です。
まずは、ザックリと吉川英治以降1970年代ぐらいまでに発表された主な「三国志」関連出版物を列挙します。

●★ 吉川英治『三国志』(1939、40年執筆)
○☆ 小川環樹・金田純一郎訳『完訳 三国志』(1953年初版)
○☆ 立間祥介訳『三国志演義』(1958年初版)
●★ 柴田錬三郎『英雄ここにあり』(1969年には脱稿)
●★ 横山光輝『三国志』(1971~1986年連載)
○★ 陳舜臣『秘本三国志』(1974年初版)
○☆ 今鷹真・井波律子他訳『正史 三国志』(1977~1989年初版)


漏れないですかね?
こちらの一覧表には、●○★☆といった4種類の記号を付けています。
1列目は「夏侯惇」の読みの区分を表わし、「●」は「かこうじゅん」、「○」は「かこうとん」を指します。
2列目は著者・訳者の区分を表わし、「★」は「非研究者・学者」、「☆」は「研究者・学者」を指します。
私はこの一覧表と各区分から以下のことが見えてくると思っています。

■「かこうとん」が一般読者の目に触れ始めたのは1950年代のことで、混在期間を経て1970年代以降は「かこうじゅん」に替わり「かこうとん」が定着していった
■「かこうとん」を流布させるきっかけを作ったのは「研究者・学者」であって、「非研究者・学者」である作家やクリイエイター(コーエー『三國志』1985年)などが追随して定着させることになった

そしたら、なぜ「研究者・学者」は「夏侯惇」を「かこうとん」と読んだのか?
このことについても勝手ながら2つの仮説を立てることができます。

1.とくに明治以降、漢籍由来の語句は「漢音」読みがスタンダードです。前回触れたように「惇」の「漢音」は「トン」のみです。

漢籍(漢文、漢詩など)に由来する語は漢音読みをする。
今日では漢音が呉音より優勢であるが、それは漢籍を通して入った漢音が庶民の間に急速に広まった明治以降のことである。
[参考]WEBサイト『ことばの散歩道』「呉音と漢音とはどう見分けるか?」
http://www.geocities.co.jp/collegeLife-Labo/6084/goonkanon2.htm


2.中国語で夏侯惇は「Xiahou Dun」と発音します。「Dun」は「トン」に比較的近い発音で、「トン」は本場中国の発音に近いということになります。

ザックリ言ってしまえば
 江戸庶民が愛用した「呉音」=かこうじゅん
 明治以降学者さんが愛用した「漢音」=かこうとん
の違いに帰結するんじゃないかと思います。
研究者・学者の「三国志」関連の出版物が、1950年代以降一般人の眼に触れることが増えていきます。
とくに1950年代の2つの出版物は『三国志演義』の現代語完訳本であり、様々な三国志ファンにとっての「定番本」となることで強い影響力を発揮しました。
そして1970年代の陳舜臣『秘本三国志』、追随する1980年代のコーエー『三國志』や、立間祥介訳『三国志演義』が原作といわれる『人形劇 三国志』(1982~84年)によって一気に「かこうとん」が市民権を得ることになったと想像します。

ということでいかがでしたでしょうか?
私の中では「『かこうとん』『かこうじゅん』問題」はこれで解決したつもりになっています。
それじゃ、自己満足的にスッキリしたところでおやすみなさい。
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[ 2011/03/23 02:00 ] 雑談三国志 | TB(0) | CM(6)

「夏侯惇」の読みについて-前編- 

こんばんは。
「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」により何となく落ち着かない日々が続いていますが、改めて被災された方々へ、心よりお見舞い申し上げます。

3月の3連休を利用して以前から気になっていた
平田澄子校訂『竹本座浄瑠璃集1』(叢書江戸文庫、国書刊行会、1988年)
に収録されている『諸葛孔明鼎軍談』を読みました。
諸葛孔明鼎軍談』は「三国志」を題材にした人形浄瑠璃で、江戸時代真っ只中の1724年7月に大阪で初めて演じられました。
ちなみに初演から遡ること約35年前の1689~1692年、湖南文山により『通俗三國志』が刊行され、これが『三国志演義』の初めての日本語訳(完訳)といわれています。
時代的には、結構近いですね。
この『諸葛孔明鼎軍談』、現代の我々が読むと結構興味深い内容が多かったりするので拙BLOGで数回紹介してみようかと思っていますが、初回はいきなり作品自体とはまったく関係ないことから触れてみたいと思います。

夏侯惇」の読みについてです。

今ではすっかり「かこうとん」が定着していますが、やや古参の三国志ファンには「かこうじゅん」という読み方も懐かしいのではないでしょうか?
「かこうとん」であろうが「かこうじゅん」であろうが、結局外国語を日本語読みしているに過ぎないので「正しい」「間違い」ということはないのですが、「かこうとん」「かこうじゅん」どちらの読みが日本人にとってより親しまれてきたのか…仮に1689年をスタート地点に設定したうえで、その読みを使われてきた「期間」によって判断した場合、「かこうじゅん」の方に軍配が上がるのです。
「かこうじゅん」は(おそらく)1689年から1960、70年代までの約270~280年間メインの読み方として流布しており、「かこうとん」は1970、80年代以降のわずか約30~40年間しか一般的には使われていません。
ということで、以下、私が知りうる限りの取るに足らない情報によって屁理屈をこねさせていただきます。

諸葛孔明鼎軍談』は人形浄瑠璃(≒文楽)の「義太夫本」、いわゆる台本みたいなものです。
人形浄瑠璃は「太夫」「三味線」「人形遣い」三位一体の演芸ですが、そのうちの「太夫」は「物語を語る」役割を担っています。
声に出して語る「太夫」が使う台本であることから、「義太夫本」には漢字に対していちいち丁寧にルビがふられています。
作品を読んでみると、曹操が「黄巾の賊」を討伐し凱旋するという初登場のシーンで、本記事の主人公・夏侯惇もあわせて早くも登場します。

大鴻臚曹嵩が嫡男。典軍校尉曹操しづ〱と参内し。是も同く張角が首寵臣夏候惇に捧させ。

内容についてはこの文章だけでツッコミどころがあるのですが…「侯」の字が「候」になっているのは置いておいて、この「夏候惇」のルビが「かこうじゅん」とハッキリ表記されています。
通俗三国志2※ちなみに初版の『通俗三國志』は目にしたことがないのですが、私が所有している1884年(明治17年)に刊行された信濃出版會社版『通俗三國志』(画像)にも『諸葛孔明鼎軍談』同様に「カコウジュン」とルビがふられています。

漢字には大別すると「音読み」と「訓読み」があり、三国志の登場人物は(多分ほぼ)「音読み」で読まれます。
さらに音読みの中にも、「漢音」「呉音」など数種類の読み方があるようで…「惇」の場合は、呉音だと「ジュン」「トン」、漢音だと「トン」と読むことになります。通俗三国志1

[参考]『デジタル大辞泉』
http://kotobank.jp/word/%E6%83%87

つまり、音読みとしては「ジュン」でも「トン」でも問題ないということになります。
ここで、「三国志」自体の一般的な受容が始まった江戸時代当時の読みがどうだったのか、わかりやすく紹介してくれているWEBサイトがあるので、さらに突っ込んで確認してみます。

江戸時代以前の庶民の間では、漢音読みの漢語はほとんど普及していなかった。庶民が知っていた漢語は、より古く入った呉音読みの漢語にほぼ限られていたといってもよい。
[参考]WEBサイト『ことばの散歩道』「呉音と漢音とはどう見分けるか?」
http://www.geocities.co.jp/collegeLife-Labo/6084/goonkanon2.htm

江戸時代以前、庶民の間では「呉音読み」が普及していました。
「惇」は呉音で「ジュン」とも「トン」とも読むことができますが、おそらく「ジュン」の方が人口に膾炙した読み方だったのではないでしょうか?

ということで江戸時代以降一般的には「夏侯惇=かこうじゅん」との読みが流布していたこと及び背景をザーッと見てきました。
以降「かこうじゅん」の読みは
吉川英治『三国志』(執筆期間1939、40年)
柴田錬三郎『英雄ここにあり』(1969年には脱稿)
横山光輝『三国志』(連載期間1971~1986年)
といった各名作(大衆文学、漫画)たちにも、なんら疑う、迷う余地もなく受け継がれていきました。

さて、だとするといつから「かこうとん」の読みが広まっていったのでしょうか?
次回へ続く。

※今回の「『夏侯惇』の読み」については2、3日調べられた範囲だけで垂れ流しています。
漏れ、誤りなどのご指摘ぜひぜひコメントにてよろしくお願いします!
[ 2011/03/22 22:55 ] 雑談三国志 | TB(0) | CM(2)

貨幣経済の質的変化(柿沼論文を読んで) 

久しぶりに、BLOG更新します。
しかも、グルメ三国志以外の記事で。
2/25、NPO三国志フォーラムのTwitter上でのつぶやきで紹介された
柿沼陽平「三国時代の曹における税制改革と貨幣経済の質的変化」(『東洋学報』第92巻第3号)
を、国会図書館でコピって読んだのでメモ程度に残しておこうと思います。
数年前から三国志な時代の経済とくに貨幣経済に興味があるので、ドンピシャなタイトルにグッときました。
ただしメモ書きなので人様に晒すにはわかりにくくスミマセンが、ご容赦ください。

ちなみに「貨幣」という単語は「経済的流通手段」と定義され、近現代的な「銭」だけを指すものじゃありません(黄金、布帛、穀なども含まれます)。

まずタイトルにある「貨幣経済の質的変化」って何か?
私の拙い解釈で勝手にまとめてみると

[戦国秦漢貨幣経済の構造]
銭=国家供給型の国家的決済手段兼経済的流通手段
布帛=民間供給型の補助的貨幣

貨幣経済の構造]
銭=国家供給型の経済的流通手段
布帛=民間供給型の国家的決済手段

という構造上の質的変化を指しています。

この質的変化をもたらしたのは
①漢代の布帛生産量の漸次的増加
②銭は急速に信用を失い、国家的決済手段としての公的な流通はほとんど停止した
という2点です。

銭、布帛といった各貨幣を「手段」に応じて構造化している点はわかりやすく、新鮮です。
今後整理して論考を深めるにはハッキリとした道しるべになってイイですね。

その他、私個人の興味に沿って気になったところを順不同で挙げておきます。

■前漢武帝期の塩鉄専売制は、布帛を国家的税収とすることも企図されていたこと。
知りませんでした…塩鉄の専売は、生活必需品を国家が一元管理することで国家収入増を図るというレベルの認識で、塩鉄を入手するために布帛の自給と捻出が民にとってはセットになっている、という認識がなかったです。

■孫呉では実態として銭が農村にまで深く浸透していたこと。
孫呉の貨幣政策については過去拙BLOGでも書きましたが、孫呉が大銭しか発行しなかった事実とセットで考えを深めるとおもしろそう。

従来多くの先学は、漢代銭納税制の実態に言及する際に、農民は入手困難な銭の代わりに布帛等を代納していたと推測してきたのだが、本史料(孫呉・走馬楼呉簡「嘉禾吏民田家莂」)によれば、孫呉では本当に銭を納税手段として用いており、それゆえ当時の農民は何としても銭を入手せねばならなかったことになる。これは孫呉が、「銭=国家的決済手段」を軸とする漢代貨幣経済の特質を濃厚に継受していた


曹丕が五銖銭を「復」し、「罷」めた理由のひとつに「仏像建立による青銅消費量増加」があったらしいこと。
本当か?
マクロ経済に影響を及ぼすほどの仏像建立が曹の文帝期に??
仏教伝来済みとはいえ…そこまでの建立が本当にあり得たのでしょうか、疑問。

背景について全漢昇氏は、①戦乱による経済混乱、②人口激減、③青銅供給量の減少、④仏像建立による青銅消費量増加の四点を挙げる。


■大司農である司馬芝が五銖銭復活を上奏したことに矛盾はないということ。
明帝期に五銖銭復活を上奏した司馬芝が、戸調制の基礎である男耕女織を重視した大司農であることは、一見すると違和感や矛盾を覚えませんか?私は覚えていました。
が、上述のように銭と布帛がもつ役割の構造上の変化を踏まえると、大司農である司馬芝にとっても、戸調制継続と五銖銭復活とが必ずしも矛盾するものではなかったといえます。
これも発見です。

理解が及ばず、誤った理解をしている可能性大ですが、とっても参考になりました。
いやー、柿沼氏にお会いしたい…。

※引用はすべて
柿沼陽平「三国時代の曹における税制改革と貨幣経済の質的変化」(『東洋学報』第92巻第3号)
[ 2011/03/06 03:32 ] 08:貨幣政策覚書 | TB(0) | CM(4)
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