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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

孫権の後継者問題 

前回「悪の華」とも関わりがあり、呉衰亡の根っこにあった孫権の後継者問題について、今回は書きます。
内容としては、私が参加させてもらっている「三国志愛好会」MLの内容を、やや改訂したものです。
「孫権は若いときは優秀だったよねぇ…赤壁の戦いに至った決断とかは秀逸だね。だけど、下手に長生きしてしまったからか、はたまた年をとってボケてしまったからか、晩年は後継者候補を寵愛の度合いによって次々変えるという失態を演じ、挙句の果てに陸遜他の有為な人材を多数失ってしまった…だから、あんまり評価が良くないよね」…と、そんな発言や文章をよく目にします。
でも、人間の性質が年齢によってコロコロ変わるとは、私は思えません。
また、人間の性質の変化で事象に理由付けをすると、そこで因果関係などを追求するための思考が停止するので…あんまり好きじゃないです。
ということで、私なりに孫権の後継者問題について考えてみます。
この後継者問題での孫権の態度は、仮にも「一代の英傑」たる孫権に何らかの思惑があった政治的な行動の結果だったのではないか?と疑っています。

結論から言うと、「呉の四姓」を中心とした地元豪族のパワーバランスをコントロールするために、孫権が自身の後継者問題をも利用しようとしたんじゃないか?
…そして、思惑を超えた大混乱を結果として巻き起こしてしまい、孫権が自身で収拾をつけることができなくなってしまったんではないか?…と思っています。

家柄がそんなによくない孫氏率いる「呉」は、孫堅の代から常に地元豪族の名声を利用しつつ、かつ牽制しつつ、微妙なパワーバランスのうえで成り立っていた地方政権でした。
呉、揚州で大きな名声を博していた張、陸、朱、顧の「呉の四姓」、とくに陸氏、顧氏の両氏は孫権政権内でも丞相に就くなど、陸遜、顧雍を中心として、皇帝自身に匹敵せんばかりの勢力を有していました。
彼らは、年齢的な序列でいうと「正統」な孫和を擁立していました。
一方、歩隲(孫権の歩夫人と同族)、全琮(歩夫人の娘・全公主の夫)、呂岱(歩夫人の娘・朱公主の前夫・劉纂の統括者)といった、歩夫人やその娘・全公主を中心とした孫呉内部の「新興勢力」が存在していました。
彼らは元々仲の悪かった王夫人とその息子・孫和系の勢力が、さらに強大になることを恐れました。
そこで、孫権に取り入るとともに、自尊心旺盛な孫覇(ただし、歩夫人の血縁ではない)に肩入れし、孫和系の勢力との対立を深めていました。

この政権内の対立に目をつけたのが、誰あろう孫権その人でした。
後継者問題を軸に表面化した勢力抗争を利用して、陸氏、顧氏ら「既存勢力」の力を削ることを図り、結果として皇帝としての孫氏の基盤をより磐石なものにしようとしました。
この後継者問題は、孫和、孫覇ともに廃され、結局末子の孫亮が2代目になるという顛末に及ぶのですが、その過程で「既存勢力」の親玉格であった陸遜が憤死し、顧雍は一族もろとも流刑に処されます。

…わたしたち後世の人間にとっては、感情的に陸遜の死をどうしても悲劇的に受け取りです。
しかし当時既に老齢の域に入り、保守勢力の親玉格になっていた陸遜の存在が、孫権自身にとっては新進気鋭の人材育成を妨げ、かつ言うがままにコントロールできない目の上のタンコブと受け取られていても、それは不思議じゃなかった気もします。

一方、孫覇に肩入れした「新興勢力」は枝葉の人物が処分されたのみでした。
全氏は以後一族が立て続けに侯に列せられるなどの厚遇を受けたりと、後継者問題以後も一時的に勢力を伸張させます。
元々孫覇とは血縁的つながりがなかったこと、また代わりに擁立された孫亮が、全琮の血縁である全尚の娘を夫人としていたことから、勢力的な打撃はほぼなかったと言えます。

孫権自身が後継者問題に白黒をつける以前に逝去したので、収拾が半ばうやむやになってしまったことが、孫権死後も政権内抗争が恒常化してしまうことを導き、呉を自滅に追い込んでしまった原因になったのです。
策士(寝業師)的な一面をもつ孫権が、後継者問題をも策として利用しようとし、結局策に溺れた…ともいえるのではないでしょうか?


[ 2004/03/14 08:43 ] その他雑談 | TB(0) | CM(0)
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