三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

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オレ流・董卓の権力掌握法 

いきなりですが、様々な「オレ流」が目立って理解しにくい董卓について、個人的に疑問に思っていたことや、私なりの解釈などなど…順不同ですが、これから数回に亘って書いてみたいと思います。

まず1回目は、「何故、董卓は短期間で権力を握ることができたか?」について。

…董卓上洛の背景には、当時の大将軍・何進と宦官による宮廷抗争劇がありました。
宦官制圧のために、何進は各地の豪族らに協力を呼びかけ、そのひとりに涼州の雄・董卓も含まれていました。
董卓は何進の呼びかけに応じましたが、上洛の途上、抗争の中心人物である何進が宦官により暗殺され、国都・洛陽では血で血を洗う何進派による宦官大虐殺が展開されます。
国都大混乱の中、宮中を脱した皇帝(少帝:何進の妹の子)を保護したのが、偶然にも洛陽入りする直前の董卓でした。
皇帝を手中にできた、この幸運こそが董卓の権威を一気に高めることになった…というのも、権力を短期間に掌握できた原因のひとつにはなるでしょう。

…が、今回は「軍事力」にフォーカスして考えます。

上記のような未曾有の大混乱を収拾するには、政治力以上に有無を言わせぬ「強大な軍事力」の行使が手っ取り早い手段でした。
しかし当時、洛陽に到達した董卓の軍勢は総勢3,000人。
「たった3,000人かよ!?」…って感じじゃないですか?
例えば、衛茲という人物からの家財提供を受けて、189年に曹操が決起した際の兵数ですら5,000人いたことと比較すると、当初董卓軍の規模が大したものでなかったことは一目瞭然かと思います(勿論、兵の「質」は別問題です)。
だって、ひとりの資産家による援助に及ばない規模なのですから。
上洛して皇帝を手中にしたはいいが、全くの弱小勢力である董卓。
これでは、折角手にしたイニシアティヴを守ることすらおぼつきません。
そこで董卓が打った手は、「子供騙し」と「大博打」によるコンボ。
「子供騙し」とは、持ち駒のすべてである3,000人の兵士を少しでも多く見せるため、夜になると城門から兵士をコソコソと外に出し、日中に軍鼓を鳴らして入城させることをくり返したこと。
かなりセコイ戦術ですが…これにより董卓軍は大軍勢であるという幻想を、人々に抱かせることができました。
その隙に、「董卓軍は大軍である」という幻想を現実のものとするため、「子供騙し」とは別の「大博打」を大胆に打ちます。
主を失った元大将軍・何進とその弟・何苗の軍隊をそっくり吸収。
非常職である「大将軍」の軍隊だけでなく、さらに、宮中警護を司る「執金吾」という地位にあった丁原を暗殺し、その軍隊(「近衛兵」に近い軍隊)をも吸収。
丁原暗殺には、丁原の懐刀であった呂布に裏切らせるという荒技も駆使しました。
…以上のような、「子供騙し」と「大博打」の合わせ技により、大規模な軍隊を短期間に掌握した董卓は、皇帝を傍らにして、何者も寄せつけないような権力の中枢に登りつめることになりました。
董卓の勝因は、単純にお膳立てされていた「権力の空白」に便乗したというだけでなく、恐ろしく短期間で完遂した「軍事権の掌握」とその「決断力」にあったといえます。

…ただ、急速な軍事力の膨張は、それを支える糧食などの供給源のない董卓にとってとてつもない負担になったことも確か。
董卓が権力の中枢にあった期間、際限なくくり返された資産没収、金品略奪、陵墓荒らしetc.は、軍事力掌握を続けるために避けることができない行為だったのかもしれません。

[ 2004/04/18 23:43 ] 02:オレ流・董卓 | TB(0) | CM(0)
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