『三国志』前半、その勇猛さと強烈な「武」によって中原に大混乱を巻き起こした呂布。
彼が滅亡すべきして滅亡した原因を、呂布
一個人ではなく呂布軍団に集った人材から眺めてみます。
『正史』に記載のある呂布麾下の文官・武官(もしくは麾下に近い協力者)は、大体以下の通り。
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┫文官┣━━━━━━━━━━━━━━━━
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陳宮、袁渙、許汜、王楷、秦宜禄
【スパイ】
陳珪、陳登
【仕官拒否】
陳紀、陳羣、張紘
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┫武官┣━━━━━━━━━━━━━━━━
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張遼、高順、薛蘭、李封、成廉、魏越、曹性、劉何、張邈、張超、臧洪、臧覇、孫観
【謀叛】
郝萌、魏続、侯成、宋憲
ザーッと眺めて分かることは…
1.数的に武官>文官というアンバランスな構造になっています。文官の少なさは絶望的で、しかも陳宮以外は事務方もしくは外交に従事する文官、あるいは
B級文官しかいなかった模様。つまり、軍事、民政に関するすべては陳宮の双肩にかかっている状態でした。
2.さらに、呂布軍団に対する文官の求心力が驚くほど低いことも分かります。ただでさえ文官の数が少ないのに、求めては拒否されるは、スパイまで潜り込んでいるはの状態
ですから!…残念!3.武官は文官よりも充実しています。張遼、高順、臧洪、臧覇といったA級クラスの武将も属していました。ただ、呂布が彼ら有能な武将の諫言、忠言に耳を貸さなかったということが問題でした。
…人材面から見ると、文官の欠乏と求心力の低さが呂布軍団にとって致命的だったと言えます。
勿論呂布自身、文官の欠乏状況に危惧は抱いていたようで、A級クラスの文官を求める姿勢は示していました。が、求められた文官はそれに応じることはありませんでした。
最終的には、呂布個人の魅力に集約されるのかもしれませんが、充実の「武」を支える「知」の集団なくして呂布の滅亡を回避する術はなかったということですね。