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中華人民共和国から、晩上好!
約1週間に亘る旅程の果て、最終地・アモイのホテルからお送りします。
旅行自体のことを書き始めると、「開平の望楼(写真)」の奇妙奇天烈さ、「福建の土楼」の雄大さ、夢にまで見た土楼民泊2連泊、各地に残る日中戦争の傷跡、海外交通事故初体験、同行者のダウン…そしてすべてに言えることだけれど中国人民の温かさ…このBLOGでは主旨が異なるため触れられず、残念です。
もう幾度目かになる中国ぶらり旅ですが、兎に角怒涛の約1週間、相変わらずイベントてんこ盛りでした。
さて旅行を通して三国志について想いを馳せたことなどを、3回程度書いてみようと思います。
まずは広東省開平市を訪れてのこと。
開平は三国時代当時は交州に属する、中華が果てる土地。
このような土地で、40数年間半独立勢力を保ち続けた士燮の存在のデカさを、とくに実感することになりました。
単純に風土として…
★国家規模の教育が行き渡っている現代においてすら、一般的に「普通話(中国語における標準語)」が通じにくい。言語に代表されるように、中原との文化の差異が存在する
そして土地柄として…
★11月下旬でもTシャツ一枚でヘッチャラなほど温暖な気候と豊富な平地の恩恵か、稲をはじめ、野菜や南国果物などモノなりがよい(子どもたちが、自生のスターフルーツをもいで食べ食べ歩いているのを見かけたり)
★後世、マカオや香港などの良港が脚光を浴びるように、海との関連性が強い(内陸までも、太い河川により海洋へと直結)
など特徴的なことを散見できました。
士燮が勢力を張った交州は、今日でこそ漢族が大多数だけれど、当時は恐らく「越族(『百越』の一)」が住民の多数を占めていたのではないか?と思われます。
一方、遙か中原の戦乱を避けるように、異民族の生活空間に続々流入する漢族の人士や民衆。
彼らを受け入れる士燮は交州出身者であり、かつ国都・洛陽への遊学経験が豊富な当時の「名士」のひとりという稀有な経歴の持ち主でした。
土着の異民族と流入する漢族とが入り混じる交州において、現地で産まれ育ち土地の風俗に精通し、かつ中華のなんたるかを中華の中枢で直接的に理解した知識人でもある士燮の求心力の強さは、想像に難くありません。
さらに、武力ではなく巧みな外交力に依って交州を戦乱から遠ざけ続けた士燮の政策は、潤沢な農業と海上貿易に支えられ、かつそれらの活動を支えていたに違いありません。
話は飛びますが、今回観てきた「開平の望楼」は、主に1920~30年台に華僑によって相次いで建てられた西洋風建築物。
その背景には、強盗、殺人が日常茶飯事という、現地の治安状態が極めて悪かったことが挙げられ、海外の華僑たちは帰郷後を想定した自衛手段を講じる必要があった…ということがあります。
しかし時代は異なれど、『正史』を読む限り士燮が実質的に交州に君臨していた時期、戦乱や混乱に関する記事は見当たらない(はずです…弱気)。
交州にとって士燮を戴いた時期は、安らかなる季節だったように思えます。