中国旅行を通して三国志について想う…第2回目は、山越について。
現・江西省、福建省の山岳地帯を主な根城に、絶えず孫呉を悩ませた不服従民たち…それが山越です。
今回の旅の後半に、春秋戦国時代頃からスポットを浴びた「百越」の末裔とも、平地を捨てた漢族の一部とも言われる彼らが跳躍していた、福建省龍岩市は永定県を訪れました。
今は客家人による土楼(円楼)が、多数現存することで有名な地方(写真)。
『頭文字D』とか涎を垂らして喜びそうなほどのクネクネカーブを、約2時間半経験しないと平地に出られないくらい深い深~い山々に点々と姿を見せる土楼群は、生活形態こそ違えどいにしえの山越の生活を想わせてもくれます。
今でこそ客家の人々は見事な「棚田」を各所に作って稲作を行っていますが、約1,800年前の山越が同様に稲などの農作物を育てて主要な食料源としていた…ことは考えにくいです(自生の稲は存在したそうですが)。
それくらい険しく、緑の深い山間の地域。
農耕ではなく採取・狩猟を生業としていたと考えると…よく見聞きする「山越の叛乱」は単純に「食料の多寡」の影響が大きかったのではないか?と思えてきます。
手元に『正史』がないので詳しくはわかりませんが、「山越の叛乱」の起こる年は天候不順の年と重なるのではないでしょうか?
今年の秋、ワイドショーをお騒がせしていた「熊」ちゃんたちと同様、天候不順(台風など)により山間部の食料が枯渇し、止む無く山を降り、麓の村々を食料のために騒がす…そういう構造が見られたりする気がします(帰国後、調べてみます)。
また、東西南北数百?は連なる険しい山々を跋扈する山越を討ち尽くすことは、当時の兵器と技術ではまず無理だったと考えます。
陸遜、賀斉など、呉の多くの武将が山越討伐で名を挙げていますが、武将の名が連なれば連なるほど、山越の根絶もしくは吸収(=納税対象として戸籍化)の難しさを物語る結果となります。
孫呉の得意とする水戦は言うに及ばず、陸戦すらも山岳戦では効果を発揮できたか怪しいものです。
前述通り、食うに困って山を降りる山越を追っても、また深い山々に四散するだけ…。
孫呉にとっては長江流域より南方へ向けて国土を拡大する際に、山越という火種も包括してしまったことになります。
火種を消火しきるため生真面目に討伐を繰り返す孫呉の諸将を尻目に、諸方の山々に住まう山越が村々を略奪しては、お尻ペンペンしながら正規軍を煙に巻いていく…生活、生命を賭けたやりとりである一方、そんな少々おかしみのある風景もまた目の前に広がる感じがしました。