前回記事「関興のお母さん」の続きです。
「虚実の探求は別次元の問題」と書きながら、ちょっと確認しておきたいことがあるのです。
『関羽伝』と『正史』他の資料とでは、どうしても関興の生年に
食い違いが生じてしまいます。
まず『関羽伝』の記述を、
ザックリと年表形式で表すと…
160年:関羽誕生
177年:胡氏と結婚(関羽17歳)
178年:長子・関平誕生(関羽18歳)
184年:
↑
この辺で関羽は故郷・司州河東郡解県を出奔。
関興はそのまま村に残され、村人に育てられた…そうなので、関羽出奔前に関興が出生しているということになります。
↓
188年:劉備、張飛と出会う(関羽28歳)
219年:関羽死亡(関羽59歳)
ということで、『関羽伝』による関興の生年は、179~187年頃です。
…と、ここまでは『関羽伝』を読みほぐしてきたのですが、一方研究書や『正史』から、関興の生年がどのように類推できるかというと…
★関興は、224、225年に蜀の侍中に任じられています(『三國政権の構造と「名士」』渡邉義浩著/汲古書院刊)。
★また「20歳で侍中・中監軍になった」という記述が『正史』にあります。
ここから、関興は224、225年頃に20歳であったことがわかります。
ということは、引き算をすれば関興の生年は、204、205年頃ということになります。
…ん??やはり…
『関羽伝』のネタ元である郷土史家の話と、『正史』他を元にした話とでは、関興の生年に食い違いがありますね。
関興の生年は、『関羽伝』だと179~187年頃、『正史』他だと204、205年頃。
下手したら1世代も違います…。
ただし、「そしたらどっちが正しいんだ!
ん~どっち!?」と言われてもこれ以上掘り下げる情報もないですし…前回の記事「関興のお母さん」については、このような食い違いも踏まえて読んでくださいね、というところで締めさせてもらいます。