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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

三国志はじめて物語 ~東洋法学の父・衛覬~ 

今回は、「塩と三国志」の第4回でチラ出した衛覬について。
私は三国志に限らず調べものをする際、まずNETでの気楽な検索から始めます。
衛覬についてもまずいつも通り鼻をほじりながらGoogle検索をしてみると、電子図書館にある
『法窓夜話』(穂積陳重著)
という書籍に突き当たりました。
私は学生時代に法律をちょっぴり齧っていたりもしたので、「穂積陳重」の名が「民法の祖」という尊称とともに脳ミソの片隅からひょっこり顔を出しました。
気になったのでちょっと読んでみると

律学博士なるものは、この衛覬の建議によって始めて置かれたものであるという。
とあります。
あらま、偶然。
三国時代の塩政を調べていて引っかかった衛覬が、法学面でも釣れちゃいました。
『魏書』「衛覬伝」や『晋書』「刑法志」によると、229年、魏帝・曹叡に対する衛覬の上奏により「律博士(=法学博士)」が新設されました。
法学を体系的に研究しかつ教授する公的な官職としては、中国初…らしいです。
当時の法律は
26,272条
7,730,000余言
に及ぶ膨大な文言で構成されていた模様。
こうなるともはや一官吏、獄吏が理解できるものではありませんでした。
衛覬は律博士の新設を機に、末端の役人まで法律を教授し合い、理解が徹底されることを図ったのです。
律博士新設はまた、司空・陳羣らが中心となって行った「魏法」の制定にも影響したようです。
「魏法」は漢代の膨大な法律を簡約にし、かつ体系化、整備したもので、衛覬の律博士新設と発想を同じくするものでした。
さらに、律博士新設の影響は、中国に留まらず日本にも及ぼします。
衛覬の上奏から約500年後の728年、日本でも「律学博士」が導入され(のちに「明法博士」に改称)、以後脈々と継承されていくことになります。

こう見てくると、穂積陳重が「(近代日本)民法の祖」なら、衛覬は「東洋法学の父」とも称すことができるほど大きな影響力を持つ人物に思えてきませんか?
拡大解釈ですけどね。

[ 2005/01/07 07:29 ] トリビア三国志 | TB(0) | CM(0)
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