私が勤める会社には、なかなか立派な図書館があります。
その図書館で借りて読んだ
『新版世界各国史5 東南アジア史?』(石井米雄・桜井由躬雄編/山川出版社刊)
…思いの外グイグイ引き込まれる内容でした。
東南アジア古代史への関心は、高校の世界史でマーカーすら引いたことないレベルだったんですが…中華圏との関係性が想像以上に密接で、中華圏に対して化学反応みたいな動きをピクピク示し、その様がなんとも
愛らしいです。
そしてまた、中華圏で三国時代に当たる時期の東南アジア史が熱いんですね。
キーパーソンは、久しぶりの登場になる士燮。
士燮ってホント不思議な人物。
士燮のことを根堀り葉掘り知りたくなっちゃう…この気持ちって…もしかしてラヴってるのかも。
と、またしても前置きが長くなっていますが、今回と次回は地政学的な切り口で、東南アジアという視座において士燮を舐め回してみます。
交趾郡の郡都・龍編(現ヴェトナム・ハノイ近辺)のある一帯は、「紅河デルタ」という前2000年頃からいくつもの文明を培ってきた豊穣の地。
交趾太守に赴任した2世紀後半から226年まで、この豊穣の地を中心に半独立国家を維持し続けた士燮。
その繁栄は、肥沃な紅河デルタがもたらす豊富な農産物と、
南海貿易の独占がもたらす莫大な交易品によって成立していたようです。
士燮の居城だったという「ルイラウ」の史跡からは、城内まで水路を引き入れていたことがわかるそうです。
彼の人並みでない政治力が垣間見られますね。
そんな彼の支配領域は、現在のヴェトナム・フエ周辺から中国・広州一帯に及ぶ広大なものでした。
士燮が築いた半独立国家は、中華圏から捉えると辺境の一地方豪族として
過小評価されてしまいがちです。
しかし、東南アジアから捉えてみると、当時最先端の文明圏の最も近くに居座る、良くも悪くも存在感の大きな影響者。
例えば現代ヴェトナムでは、士燮のことが「シーニエップ(シーティェップ、シ・ヒエップとも)」として歴史なんかに登場するそうです。
士燮は、その治世において原住民である越人に学問を奨励したりしたので、ヴェトナムには彼のために「南交学祖」「士王」という尊称まであるそうです。
携帯版『三國志』では、シナリオ1で政治力54…とパッとしない評価を与えらていていも、事実として並々ならぬ影響力を後世に残している士燮。
次回ではヴェトナム北部から東南アジアまで視座を広げて、さらに士燮に突っ込んでいきます。