カミングアウトしますが…私、実は今ちょっとした身体的な病気を抱えています。
具体的にはそのうちお伝えしたりしなかったりしますが、そんなこんながありつつ、今の私の関心事は「病気や医療」。
ということで、これから三国志に見られる病気や医療…的な記事を不定期に書いていきます。
まず今回は、「建安の疫病大流行」について。
「建安の疫病大流行」…この語呂の悪い名前、
ピンとこないですよね…それもそのはず、ちょっとした出来心で勝手に名前をつけてみました。
「建安」というのは年号で、後漢末の196~220年の約24年間を指しますが、この建安年間…疫病の流行に関する記事が、これでもか!これでもか!と頻出する時期なんです。
とりあえず私が掴んでいる範囲で、疫病に関する代表的な記述を列挙してみますと…
◇◆199年◆◇
★流行病の記録としては、建安4年(199)3月に「大疫」とある。(『漢方』石原明著/中公新書)
◇◆196~206年◆◇
★建安(196~220年)と年をしるすようになってからまだ10年もたたないのに、そのうち死亡した者が3分の2あり、傷寒によるものが10分の7を占めた。(『傷寒雑病論』張機著)
※張機(張仲景)はこの時期、太守として長沙に赴任していました。
◇◆208年◆◇
★建安13年(208)、孫権が軍勢をひきいて合肥を包囲した。そのとき、(魏の)大軍は荊州を征討していたが、疫病の流行にあった。将軍の張喜に単身千騎をひきいさせ、汝南を通過の際その兵を配下に収め、それによって包囲を解かせることにしたが、やはりかなりの兵が疫病にかかった。(『魏書』「蒋済伝」)
★公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが…疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。(『魏書』「武帝紀」)
◇◆217年◆◇
★昔年(217)疫病が流行し…徐幹・陳琳・応瑒・劉も同時に皆なくなった(『魏書』「王粲伝」)
★建安22年(217)、(司馬朗は)夏侯惇・臧覇らと呉を征討した。居巣まで来ると、兵士たちに疫病が大流行した。司馬朗は自身で巡視して医薬を与えたが、病気にかかってなくなった。(『魏書』「司馬朗伝」)
◇◆219年◆◇
★この歳(219)、流行病がはやり、荊州の住民の租税をすべて免除した。(『呉書』「呉主伝」)
…まさに疫病の
ディズニー・オン・パレード。
どうですか?異様じゃないですか??
しかも、この疫病には奇妙な共通点が見られます。
いずれも中原(華北)ではなく揚州や荊州の、とくに長江周辺で大発生していますね。
しかも一部の例を除いて、現地民ではなくよそ者に対して非常な猛威を奮っていることもわかります。
一体、この大疫病の正体は何なんだろう??
うんうん頭を抱えていたら…その謎を解くヒントが、上述の列挙した文章の中にありました。
ヒントって?大疫病の正体とは??
次回、全貌が明らかに!
じっちゃんの名にかけて!?
AUTHOR: バナナ牛乳
URL: http://blog.goo.ne.jp/milk_banana
DATE: 02/07/2005 18:30:26
ピン子…いい顔もってきたな~。
それはいいとして、大丈夫ですか?お身体…
気のせいか、文面がかもす雰囲気もテンションがやや低めのような。
疫病の正体もすんごい気になるところですが
(USHISUKEさんの病気もね)
ほんと、お大事にですYO!
AUTHOR: バナナ牛乳
URL: http://blog.goo.ne.jp/milk_banana
DATE: 02/07/2005 18:30:26
ピン子…いい顔もってきたな~。
それはいいとして、大丈夫ですか?お身体…
気のせいか、文面がかもす雰囲気もテンションがやや低めのような。
疫病の正体もすんごい気になるところですが
(USHISUKEさんの病気もね)
ほんと、お大事にですYO!
古代から人類を悩ましてきたんでしょうね
>現地民ではなくよそ者に対して非常な猛威を奮っている
どう考えても不自然ですよね
いわゆる細菌兵器のようなものはかなり古くからあったんじゃないでしょうか
近代のように実験室で培養したりはできなくても
感染した動物とかを敵陣にばら撒くくらいのことはできそうですから
まともな理由を考えるなら現地民は免疫ができている
(そうじゃないものは死に絶えている)のに対し
よそ者は免疫がないからでしょうけど
>ヤリすぎ
兵士はほとんど♂ですからエイズのような免疫を低下させるような
疾患があったのかもしれないですね
単なる遠征による体力低下って気もしますけど