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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

【独占!】王平は南蛮非漢民族出身か!?~前編~ 

いやー、無知って素晴らしいですね!ムチムチ。
新しいことを知ったときの興奮たるや、たまらんものがあります…無知に感謝。

発端は、『曹操-魏の武帝』(石井仁著/新人物往来社刊)。
ちょっと前に購入していたんですが、しばらく放置プレー状態だった書籍です。
日曜日の朝、起きぬけの気だるさの中、何気なくペラペラめくっていると

蜀漢の将軍王平(字は子均、巴西郡の人、?~248)…は板楯蛮夷の出身とみられる。


なる文章が、ふと目に飛び込んできました。
「…ぅぇえ!王平って、あの街亭で麓を死守した王平?漢民族じゃなかったの??」
驚天動地。
そりゃもう、気だるさも吹っ飛びましたよ。
蜀の生命線である漢中の太守、武官としては最上位クラスの2品(九品官人法より)に相当する鎮北将軍にまで昇進した武将なんだから、当然のように漢民族だと思っていました。
というか、王平が非漢民族であることなど、頭の片隅にもありませんでした。

日曜日の予定変更。
今日1日はすべて、王平が南蛮非漢民族(板楯蛮)出身である根拠探しに捧げることに決定。

天下の東京都立中央図書館へ急行し、関連資料をひっくり返し…結果、「王平非漢民族説」を裏付ける資料をモリモリ見つけ、妄想もモンモンと沸いてきたので2回に分けて整理しつつ書き記していこうと思います。
…ひょっとしたらこの話って有名な話なのかもしれないので、既知のかたはお見捨てください。

◇◆王平が非漢民族出身とする根拠◆◇
点と点を結んで線とする…出発点は

王平は…巴西郡宕渠県の人である。もと母方の家の何氏に養われたが、後に王姓に戻った。杜濩・朴胡について洛陽に行き…
(『蜀書』「王平伝」)


という記述からです。

ここで注目すべきは「巴西郡宕渠県」という地名と、「杜濩・朴胡」という人名の2点。

賨人…自巴西之宕渠、移入漢中。
(『華陽国志』「李特雄期寿勢志」)


この記述は、張魯の五斗米道政権下に入った「賨人(=板楯蛮)」が大挙して漢中へ移住する様子を表しています。
※「賨人」が「板楯蛮」である論証は
『史観』第116冊「五斗米道政権と板楯蛮」(澤章敏著/早稲田大学史学会刊)
に詳しいです。
王平の出身地である「巴西郡宕渠県(現・四川省渠県近く)」は、「南蛮」と称される異民族の一民族・板楯蛮が多く生活する地域だったのです。
そしてもうひとつ「杜濩・朴胡」という2名の人物は、その板楯蛮の有力な統率者だったのです。

巴の七豪族のうち蛮王の朴胡と賨邑侯の杜濩は巴の蛮人と賨の住民をこぞって帰順した。
(『魏書』「武帝紀」)


2名が「蛮王」であり「賨」を冠する侯(後漢朝が異民族の首長などに与えた爵号)であったことが、そのことを如実に示しています。
王平は、板楯蛮の有力な統率者である杜濩と朴胡「について」洛陽へ行きました。
ついて行った(原典だと「隨」)のです。
非漢民族の統率者についていくのは、普通に考えれば非漢民族の被統率者たちですよね。
ということは…王平が(純粋にであるかどうかはわからないまでも)板楯蛮の出身であることは、論理的には普通の帰結なわけです。

今回は一旦ここでおしまいにして、妄想含め続きは後編で。

AUTHOR: 曹徳 DATE: 03/06/2006 13:52:00 こんにちは。
とても興味深い考察ですね。
なるほど武帝紀に「南蛮の朴胡と鐘U邑侯の杜助C」の記述がありましたか。
何遍も読んでたけど抜けてたなあ。読み返してみようっと。
第二弾楽しみにしています。
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