蜀の王平が、実は非漢民族出身だったんじゃないか!?
スキャンダラスなこのことについて
2回に分けて書いていこうと思っていたんですが、モンモンが止められないので、容赦なく3回に増やして書かせてもらいます。
中編にあたる今回は、王平の出身民族と思われる「板楯蛮」を掘り下げることで、よりリアルに非漢民族である王平を妄想してみることにレッツ!チャレンジ。
◇◆板楯蛮って
どんな民族?◆◇
改めて「板楯蛮」は、「ばんじゅんばん」と読みます。
この板楯蛮って、どんな民族だったんでしょうか?
推論と妄想を足して2で割ると…なんと、現代まで存続している雲南地方の一少数民族に行き当たるのです。
板楯蛮、それは彝族(イ族、ロロ族)のこと!…っぽいです。
板楯蛮と彝族、それぞれの点を結ぶヒントは
板楯七姓の盧(羅)氏と現在のロロ族(盧盧・羅羅)との関連を検討する必要があり、今後の課題としたい。
(『史観』第116冊「五斗米道政権と板楯蛮」澤章敏著/早稲田大学史学会刊)
という文章。
今後の課題…そんな悠長に待ってられないので、勝手に推論します。
上述の「板楯七姓」って具体的には
その渠帥の羅・朴・督・鄂・度・夕・龔の七姓
(『後漢書』「南蛮伝板楯蛮条」)
という有力な統率者群を指します。
このうちの「羅氏(一説に盧氏)」を、ロロ族と結びつけると、どうよ?ってことなんですが…ここで述べられているロロ族こそが、現代中国においては彝族と称される民族と同義なのです。
http://wee.kir.jp/vietnam/vet_lolo.htmlただダジャレのような語呂合わせだけだと
グーで殴られそうなので、さらに板楯蛮と彝族とを結ぶ2つの架け橋を見つけました。
ひとつ目の架け橋…それは、いずれも「武」をもって民族的な特徴とする点。
「板楯」とは「楯(たて)」に類する武具のことで、勇猛さをもって民族としての呼称としていたのでは?と捉えられます。
事実、179年に板楯蛮が叛乱を起こした際、時の皇帝・霊帝に対して、配下の者が板楯蛮について語るには
その性格は勇猛で、兵戦を得意としました。昔、永初年間に羌が漢州に入り、郡県は破壊されましたが、板楯がこれを救う事ができ、羌は戦死してほとんど全滅し、故に神兵と呼びました。
(『後漢書』「南蛮伝板楯蛮条」)
とのこと。
板楯蛮は、漢民族から「神兵」と称されるほど武勇の誉れ高い民族だったのです。
一方現代の彝族もまた
彝族は武勇を尊び、“立派な男は女性を殴らない”ということわざもあります。
(NGO-MOONCITY-のHPより)
という武勇を尊ぶ民族だそうで…「武」によって点と点がひとつ結びつきました。
そして2つ目の架け橋は、
シャーマニズム的傾向が著しく見られる民族である点。
巴西宕渠賨民…俗好鬼巫。
(『華陽国志』「李特雄期寿勢志」)
賨民=板楯蛮は鬼巫を好んだ、つまりシャーマン的存在を中枢に据えた民族だっ
たことが窺いしれます。
一方やはり現代の彝族もまた
日本の巫女と同じような役割を持つ“スニ”と呼ばれる人達もいます。また、唯一彝語の読み書きができ、宗教的技能者でもある“ピモ”と呼ばれる人達もいます。
(NGO-MOONCITY-のHPより)
というように、現代においてもなおシャーマンが重きをなしている民族のようです。
以上、民族名をひとつの手がかかりとして、民族的な特徴2点をそれぞれ線で結ぶことで、「板楯蛮=彝族説」を肉付けてみました。
王平が現代でいう彝族であるなら、その容姿はおよそ写真のようになります。
蜀の武将たちの中でも一際目立つ剽悍な武将像…一般的には地味さを否めない王平像を覆し、エキゾチックさがムンムン香りたってくるようじゃないですか?
さて次回後編では、「街亭の戦い」における王平の孤軍奮闘ぶりなどを、彼が板楯蛮出身であることを切り口に妄想していこうと企んでいます。