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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

オレ流・董卓だって涙が出ちゃう…男の子だもん 

さて「オレ流・董卓」シリーズ第3回目です。
董卓といえば、ワルモノの代名詞のように語られることが多いですね。
とくに『演義』では、三国志導入部分での最大の悪玉ですし。
でも、「董卓=悪玉」と語られれば語られるほど、ホントに「董卓=悪玉」とだけで語っていいのか?という疑問が湧いてくるのです。
先天的に「悪」な人はいないと思うので…(「性善説」ですよ、やっぱり人間は)。
そこで『正史』や『後漢書』を紐解いてみると…「反董卓連合の旗揚げ(190年1月)」以降に、董卓の傍若無人っぷりが極めて目立ってくることがわかります。
年表的に簡単に記してみると…

189年8月 董卓入洛後、皇帝廃立
189年8月以降 次々と清流系の名士を抜擢
189年11月頃 董卓の母を封じて池陽君とする
190年1月 反董卓連合旗揚げ
-------
190年同月 先帝・劉弁毒殺
190年2月 長安遷都強行
190年2月以降 董卓一族を悉く朝廷の高官に任ずる
190年6月 五銖銭を廃して「董卓小銭(悪銭)」を鋳る


董卓は、皇帝廃立というとんでもないことをしでかしはしたのですが…一方、宦官に虐げられていた清流系の名士を積極的に登用したりと、政治家として彼なりの理想像の“真似事”をしようとしていた形跡が見られます。
また、このときはまだ、母親を封じた以外には、一族や近臣を高位に就けるという馬鹿な真似は行っていません。
儒教によって思想武装した清流系名士を抜擢することは即ち儒教世界への迎合であり、母親を封じたことも儒教的な「孝」の体現を意味していたと思えますし…董卓は董卓なりに少しは自分の気持ちを抑えつつ、儒教世界における当時の政治の中枢で、なんとか支持を得られるよう配慮をしていたのがわかります。
決して入洛当初から傍若無人に振舞ってばかりいたわけではなかったのです。

しかし!そんな董卓の姿勢を一気に崩してしまったのが、「反董卓連合の旗揚げ」でした。

董卓にとって何が衝撃だったのかというと…自分が信頼した人物からの相次ぐ「裏切り」。
「反董卓連合」に参加した韓馥、劉岱、張障・轤ヘ、董卓が抜擢した周藷カ、伍瓊らが推挙した人物。
さらに、董卓自身が信頼して抜擢した周藷カ、伍瓊すらも袁紹に内通しているという有様…。
入洛以前にはほとんど董卓が経験しなかったであろう、信頼した人物から次々に裏切られるという仕打ち。
しかも、董卓自身は良かれと思って行っていたことだっただけに…裏切られた理由も結局わからず終いだったに違いないです。
裏切りの理由がわからないこと、“真似事”的な政治以外の政治手法もわからないことなどと相まって、信頼した人物からの「裏切り」という衝撃は、董卓の疑心暗鬼や、独断専行的性癖を先鋭にしていきます。
先帝殺害、長安遷都、悪銭流通…といった悪行の数々は、もはや清流系名士の諫めに耳を傾けなくなった董卓の独断専行の現れ。
また、一族を悉く高官に就けたことは、信頼した人物からの「裏切り」がトラウマとなっていることを表現しています。

こう見てみると、「悪逆非道の暴君」「巨悪」とも例えられる董卓という1人の人間への哀れみのような感情が芽生えてもきます。
董卓自身、信頼した人物から次々と裏切られたときはきっと枕を涙で濡らしたことでしょう…。
最後に、裏切りに対する董卓の哀し気な心底からの声を、『正史』より引用します。

君たちがすぐれた人物を抜擢・起用すべしと進言したから、わしは君たちの意見に従い、天下の人々の心に背くまいと思ったのだ。それなのに君たちが起用した人間は、任地に赴くや、すぐさま引き返してわしを滅ぼそうとしている。わしはなんで裏切られなければならないのだ。
(『蜀書』「許靖伝」)


[ 2004/05/08 12:03 ] 02:オレ流・董卓 | TB(0) | CM(0)
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