※ちなみに、初版の際の「序」を転載されているので旧字体など使われていますが、本編は新字体に読みやすく改められているのでご安心を。私が本書を著はすに至つた次第は、これら一般の常識の根據であり、歴史の研究にとつて價値ありと信ぜられる各種の資料に直接觸れて、この時代に生きた孔明の人となりを再現せんとすることである。…私はあくまで孔明の傳記を書くことに終始し、彼の生涯の各時期と彼の環境である當時の社會との關聯において生起しきたる事件を説明しながら彼の内的生活の動きをも窺ひ知らうと庶幾した。
これらの友だち同士(崔州平や徐庶ら)は時にはたがいに将来の希望を語りあったであろう。
襄陽一体の平和な天地には、かくのごとく、諸葛亮・崔州平・徐庶・石韜・孟建・司馬徽・龐徳公といった一団の人々の交際がいとなまれていた。孔明が名を知られ、交渉のあった範囲は湖北省中央部に居住を定めた名族たちの社交界を出なかった。しかし平和で幸福であった。
「参署といって行政措置の決定前に意見を述べ合い検討することは衆人の思慮を集め忠益を広めるのによいことである。…私の知人の徐元直(徐庶)はこれに処して惑わず、また董幼宰(董和)とは参署七年、不十分なことがあれば十返に至っても来同して事の是非を告げ教えあった。いやしくも能く元直の十分の一、幼宰の慇懃を慕って、国に忠あればすなわち亮は過失を少なくすることができよう」と、部下を訓励するとともに自らの反省を忘れないゆかしい態度を示した。…孔明はいまも彼(董和)を追思し官吏道の典型と歎じたのである。
襄陽以来の旧友向朗を丞相長史の後任に定め、彼に後事を任せ…出発の時参軍馬謖は南中統治につき献策して大いに孔明の信任を博した。
…孔明はそれでも(馬謖を重用し過ぎないように劉備が誡めたことを指して)信任の念かわらずつねに引見して終日談論することもあった。
同じく敗戦の責により…襄陽以来の孔明の旧友である向朗も免官された。
孔明は…大変仕事を愛する人であった。…かつて自ら会計の書類を検べていたことがあった。主簿の楊顒が室に入ってきて諫めた。彼は楊儀とともにむかし襄陽の蔡州の湖の辺に住み、孔明の旧友の一人である。…孔明はこの忠言に感謝の意をのべ、楊顒の歿するに及び涙を垂れること三日であった。
このエピソードを読んで、私は崔州平・徐庶・董和・胡済を「諸葛亮の四友」と勝手に命名することにしました。かつて自分が交友して有益であった人たちを数え
「むかし、初めに州平(崔州平)に交わりしばしば得失を聞き、後に元直(徐庶)に交わり勤めて啓誨された。前に幼宰(董和)と事をともにし毎言すなわち事理を尽した。後に偉度(胡済)と事に従いかずかず諫止をうけた。自分は資性鄙暗でことごとく納れることができなかったが、しかもこの四子と終始好合し、またもって彼らが直言に疑わなかったのを明かにするに十分であった」
「勢利の交はもって遠きを経難し。士のあい知るや、温にも華を増やさず、寒にも葉を改めず、四時を貫いて衰えず、険夷を歴てますます固し」
功利的な交友を非とし、常緑樹の譬をもって金石もかわらぬ友情の美を説いたもの
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