三国志お友だちの朝霧紅玉さんがツイッターで、「荊州学」や加賀栄治先生の著書『中国古典解釈史 魏晋編』に触れていたので、ちょっと触発された記事を垂れ流します。
さっさとしないと記事UPの熱が冷めそうなので、補足をすっ飛ばしたり、推敲が甘甘だったりする乱暴な記事です。ご容赦ください…。
※そういえば「三国志感謝祭」あたりからこういう触発、関連系記事が多いですね…受身。
個人的に
諸葛亮への理解を深めるという目的で、以前ある会合にあわせて「荊州の学」をちょこっと調べたことがあります。
そのときに加賀先生の同著を図書館で借りて拝読して、非常に参考になりました。
「荊州の学」の前後史や特徴に関して、私の理解、解釈は以下のような感じです。

[参考]『中国古典解釈史 魏晋篇』(加賀栄治著/勁草書房)
大筋を捉えているつもりですが…当時における「荊州の学」は儒学的にも通利の学的にも先端をいく(もしくは流行の)学問だったと認識しています。
かつ、
何晏、
王弼らの「玄学」、
杜預の「左伝集解」、反鄭玄的な
王粛説など、後世にも多大な影響を与えることになります。
推定10年にも満たない活動期間でまさに「一瞬の光芒」にも似た「荊州の学」は、荊州への人士の大量流入、とくに劉表に招かれて荊州での学問振興に尽力した
宋忠(
王粛の師)ら、在野で「襄陽サロン」とも称されるグループを形成した
司馬徽らに代表される儒者の流入と、
龐徳公ら地元の有力者の結合とによって成された偉業ともいえるんじゃないでしょうか。
[参考]WEBサイト『黄虎洞』「襄陽サロンと荊州人士」
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/ryuuhyoutojyouyou.htmlちなみに上図中の
■
王粛・
杜預的な流れ 「左伝」における管子>桓公
■
何晏・
夏侯玄・
王弼的な流れ
夏侯玄「
楽毅論」
は、加賀先生の著書とはまったく関係がない、私のメモ書きのようなものです。
諸葛亮のアイデンティティに想いを馳せるうえで、管仲(管子)と楽毅とは欠かすことができません。
管仲や楽毅に対する
諸葛亮の解釈、評価と、荊州時代に関わっていただろう「荊州の学」とを結びつける接点を見出したいと思っています。
「管子>桓公」に関しては、「公羊伝」「穀梁伝」といった他系列の「春秋」と比較した際に「左氏伝」では「春秋五覇」桓公よりも宰相として補佐した管仲の業績を高く評価している…的なことを、『
春秋左氏伝―その構成と基軸』(野間文史著/研文選書)という書籍を立ち読みした際に目にしたので、掘り下げる際の目安になるかなぁ…とか。
夏侯玄「楽毅論」に関しては、
夏侯玄による楽毅の再評価と、学者・
夏侯玄の構成要素の重要なひとつとしての玄学、及び源流としての「荊州の学」の影響とを結びつけられないかなぁ…とか。
夏侯玄の「楽毅論」の邦訳を親切な方がネットで公開してくださっているので、ぜひ一読してみてください。
[参考]WEBサイト『方壺島』
http://homepage.mac.com/two_yossy/fang-hu_island/05-zatsubu/01-gakkiron/001-0-gakkiron_01.html三国志な時代の世間一般の楽毅評価は極めて低かったことが、「楽毅論」から透けて見えます。
だとすると、
諸葛亮が自らを楽毅に比した意味って?
楽毅の再評価は夏侯玄独自の解釈ではなく、既に「荊州の学」の解釈上では楽毅評価が高かったとも考えられないか、とか。
「とか」とか「的」とか曖昧表現を多用して恥ずかしいですが、こんなところで垂れ流し終了です。
明日の「横山光輝『三国志』検定」に向けて勉強でもしようっと。
※最後に、
宋忠の『演義』での扱いは気の毒としかいいようがないです。
曹操の降伏の使者になったはいいが、劉関張3兄弟に見つかり、挙句には血祭りにされかねない状況になり…史実ベースだとそんなションボリな人物ではないような。
図のおかげで分かりやすいですし。
易や老子=「通理」とする整理の仕方とか、勉強になります。
この記事だけでも素晴らしいのですが、
USHISUKEさんの諸葛亮研究の大成もまた楽しみです。