ポポポポーン、こんばんわに。
今週、アカウンティング研修最終日の打ち上げにて、「今回の震災で垣間見た日本人の行動って、なんなんだろうね」って話になり「DNAだよ」などといろいろな意見が飛び交いました。
私はそこで「『初等教育』の影響が大きいと思います。ルールを守ろう、などの『教育』は学校でも通信教育ですらもしつこいほど行っているし」という考えを、蚊の鳴くような声で発言したりしました。
で、そういえば…と、「三国志な時代」の教育制度について以前とある会合用に資料化してみたりしていたので、思い立って拙BLOGにもUPしてみます。

[参考]東晋次『後漢時代の政治と社会』(名古屋大学出版会、1995年)ほか『四民月令』『三国志』『後漢書』『史記』『論衡』
※画像はPC上でクリックしてさらに拡大してからご覧ください。
中文書籍では複数の体系的な資料があるような感じはしているのですが、よーしチャレンジするぞ!というほど努力体質ではないので…どなたか誤り、間違い、誤認、ウソ、不足、参考文献などなどご指摘をお願いします。
私のできる範囲で調べてみたところ
■後漢時代においては、庠序学校、
太学とミクロからマクロ的なエリアにおける及び初等~高等に至る体系的な教育施設・制度が整っていたこと(ただし庠序学校は殷代からも見られるそう)
■とくに私学の隆盛が、教育の恩恵をより広範囲にもたらしたこと
なんかを、特徴的なこととして捉えられそうです。
「三国志」にはキラ星の如く英雄豪傑が登場しますが、彼らの輩出を支えたのは大陸の各地で官民によってなされた「教育」の賜物だったわけです。
しかも
太学のような「最高学府」の存在よりもむしろ、字を学び、書を読み、算学に親しみ、地理を理解し…という初等教育に始まる「体系的な学び」にこそその価値を見出すとともに、その辺のことをもっと知りたいと思う次第です。
ということで、とくに結論があるわけでもないので、この辺で書き逃げをします。おやすみなサイ。
最後に、黄巾の乱あたりからの混乱と荒廃が、それまで築かれた教育制度にも多大な影響を与えたことは容易に想像できます。
今回のタイトルに「後漢末期より前ぐらい」と表記をしたのは、今回の記事の内容が黄巾の乱あたり以後の「三国志な時代」にそのまま当てはまるとは限りません、ということを言い訳しておくためのものですので、あしからず。
簡体字で問題なければお貸ししますよ。