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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

「臨烝」という土地から諸葛亮の本質が滲む 

こんばんは。
いやー、やっぱり諸葛亮はオモシロイ。
ファンの中ではテッパンな質問「三国志で好きな人物は?」に対する回答遍歴、紆余曲折ありましたが、おそらく今後死ぬまでは「諸葛亮」でブレないと思います。

今回私が諸葛亮やっぱりオモシロイなぁ…と感じたのは、彼が一時期過ごした「臨烝」という土地をザックリ調べてみたことがきっかけです。
「臨烝」…それほどメジャーな土地ではないのですが

先主はかくて江南の地を手中におさめ、諸葛亮を軍師中郎将にして、零陵・桂陽・長沙の三郡を治めさせ、その賦税を調達して、軍事費にあてた。…『零陵先賢伝』にいう。諸葛亮はそのとき、臨烝に居住した。
(『蜀書』「諸葛亮伝」)

という風に、『正史』の中に登場します。
「208年~214年春」、すなわち劉備軍の荊州南部四郡制圧から、益州攻略中の劉備への増援として入蜀するまでの期間の最大約6年間、諸葛亮は零陵・桂陽・長沙の三郡を治めました。
207年に26、7歳で出廬した直後の抜擢。
諸葛亮としても自ら温めてきた様々な政策の実現に心を熱くし、日々多忙のうちに過ごしていたに違いありません。
その活動拠点として諸葛亮が選んだ土地が「臨烝」なのです。

臨烝は、長江流域の重要都市・公安(江陵)から直線距離で300kmほども南に下る地域にあります。
現在でいうと湖南省衡陽市にあたります。衡陽市は湖南省第2の都市です。
現在でこそ衡陽市のような大都市のある地域ですが、臨烝という地名は史書において『三国志』以前には見当たらないようです(WEBサイト『中央研究院 漢籍電子文獻』にて「二十五史」横断で「臨烝」を検索したところ)。
三国志な時代以前から集落は存在していたようですが、臨烝周辺に行政区名が現れたのは漢代になってからだそうで、諸葛亮が赴任した当時ではそれほど開発の進んだ土地ではなかった印象を受けます。
[参考]WEBサイト『Wikipedia』「衡陽市」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A1%E9%99%BD%E5%B8%82

なぜ諸葛亮は、三郡を統治するにあたってあえて臨烝という土地を選んだのでしょうか?
その答えは、彼の当時のコミットメントにあります。
諸葛亮が零陵・桂陽・長沙の三郡を統治するにあたって担った最大のコミットメントは「賦税を調達して、軍事費にあて」ることです。
すなわち徴税、集積、移送の3点をいかに最大化できるかどうかがコミットメントを達成するにあたって最重要な課題になります。

臨烝臨烝という土地を譚其驤主編『中国歴史地図集 第三冊 三国・西晋時期』(中国地図出版社)にて詳細に眺めてみると、様々な河川が合流する土地であることがわかります。
※画像をクリックすると拡大して見られます。
長江に注ぐ湘水に、烝水や耒水といった支流が流れ込む水運上の要所といった観があります。
荊州南部の大動脈である湘水を遡れば零陵郡を斜めに縦断することができ、湘水を逆に下れば長沙郡を縦断して洞庭湖と長江に達し(ここから荊州全域及び益州遠征中の劉備軍へ)、また湘水の支流である耒水を遡れば桂陽郡の中部まで容易に往来が可能となります。
諸葛亮が三郡を治めるにあたって臨烝を選んだのは、この移送の利便性を重視した地政学的メリットにあります。

さらに徴収、集積といった点については、出土資料「走馬楼呉簡」から妄想することができそうです。
「走馬楼呉簡」には地方穀倉として「東部烝口倉」という名称が登場するそうです。
当時「某口」という地名は、2つの河川の合流地点に付けられることが多く、そういう意味で「烝口」とは烝水と湘水の合流地点を指すと考えることができます。
烝水と湘水との合流地点「烝口」は、地図上での「臨烝」と合致します。
烝水を遡った場所にある重安県にも同様に穀倉が存在した記録が「走馬楼呉簡」に残っており、これらから少なくとも烝水流域には集落や穀倉(集積拠点)が点在したことが想像できます。
※ただし、諸葛亮が「東部烝口倉」などを作ったわけではないですし、「走馬楼呉簡」の時代と諸葛亮在臨烝時の時期とは必ずしも合致しません。

諸葛亮は
■荊州南部三郡を縦横無尽に流れる河川に着目し
■各河川の流域に物資の徴収、集積、移送拠点を効果的に配し
■三郡すべてに河川で通じる臨烝をハブとして、各拠点を効率的に管理・運用を行うことで、郡治上のコミットメントである「徴税及び軍資供出」に、最も効率的に対応したと考えることができます。

まさに「厳しいコミットメントに、ゼロベースで対応し、目的達成+αの成果を挙げる」という『プロジェクトX』ばりのサクセスストーリーを、諸葛亮は意図して描き出したのでした。サラリーマンの星ですね。
…「草蘆対」を考えると自作自演ともいえなくはないですが。

「臨烝の選択」という事象から、諸葛亮の生涯を通じて散見される
■コミットメントへの意識の高さ
■ゼロベースを基本とした実行力
は既に20代後半~30代前半という世に出たばかりの頃から垣間見られていたこと、そして諸葛亮の人間としての本質に根ざすものだということがわかります。
そういう意味で、三郡を治めたこの時期の活動内容を掘り下げると、諸葛亮自身のことももっと広く、掘り下げることができそうで興味がつきません。
でも資料が足りない…どなたかどんな文献、情報でも構いませんのでお知らせください!
[ 2011/04/10 22:24 ] 09:諸葛亮のこと | TB(0) | CM(0)
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