突然ですが、私は、
司馬遼太郎さんを尊敬しています。
読書の愉しさに初めて気づいたのは、浪人生の頃に文庫版の『燃えよ剣』を読んだときでした。
新撰組副長・土方歳三の一見クール(冷酷)なんだけど、夢と情熱を秘めているところ、沖田総司には見せる(もしくは沖田には分かる)お茶目なところなど、その多様な人物描写に一瞬で惹き込まれました。
司馬さんの描く人物は、主人公も敵役(かたきやく)も脇役も誰も彼も必ず「カワイさ」があるんですよね。無性にカワイイんです、全員。憎みきれないんです、誰も。
多分、善悪とかは超越して、司馬さんが注いだ歴史を生きた人々への偏見のない誠実な眼差しというか人間愛というか…そういうのが根底にあるからなんだと、私は勝手に思い込んでいます。
歴史を題材に扱うモノ書きの方は、歴史、文化、人間etc.に対する敬意、愛情、畏れなどを持って臨むべきだと思っていますし、歴史から現代もしくは後世に何かを伝えるという意志が必要だと思っています、これも勝手に。
前段が長くなりましたが…09年1月に出版された『仲達』(
塚本青史著/角川書店刊)についてです。
この本、というか恐らく塚本さんの本は、私には合いません。
著者の本は初めてなので断言するのは早計かもしれませんが…amazon他の書評を眺めた感じでは、多分この感覚、間違っていない気がしています。
■著者は、何に突き動かされてこの小説を書いたのか?
■この小説で読者に何を伝えたいのか?
■「三国志」に関して、ひいては私の人生にとって何か新しく得るものがあるのか?
などなど、読んでいる最中から、読後数日間までずっと悶々としていたのですが、結局私には分かりません。
読後に何も残らないのです。
文章が淡々としていること、登場人物がかなり俗に書かれている(ヒーローはひとりもいません、中学校や高校にいるような噂好きな生徒がたくさんいて何だかゴニョゴニョしているだけな印象)こと、それらはいいです、そういう文章って
あるとおもいます。
ただ、三国志な時代に生きた人々への愛が感じられないのは、私にとって、もうどうにもなりません。
むしろ、侮辱すら感じることが多かったです。
漠然としていると何を言っているかわからないとも思いますので、以下「ネタばれ」含みます、ご注意ください。
本のタイトルが示す通り、主人公は
司馬懿です。
魏の皇帝・
曹丕の時代から、
司馬懿本人が世を去る頃までの物語です。
約300頁に及ぶ記述は、『正史』『演義』『晋書』などに記されていることを繋ぎ合わせただけの内容がほとんどで、一部著者の作為によるエピソードが、全編に決定的な影響を与える形で挿入されています。
作為的なエピソードというのは、「鬼の虞美人草」なる大麻なのか阿片なのか…そういったヤクの原材料を、
徐庶と
鄒氏の“夫婦”が蜀の地で栽培加工していたというもの。
この作為自体は小説なので別段問題ないんですが
■魏の
曹丕はヤクの服用が元で早世し ※厳密には
鄒氏の娘(
司馬懿の妾)が手を下した
■
孫権がヤク中になって呉は手を付けられない惨状を呈し
■蜀の
魏延もヤク漬けで正常な判断ができなくなり、ヤク漬けの兵士が増大した蜀軍は腑抜けになり
…って、「三国志」のいろんなことをぜーんぶ、著者が勝手に挿入した大して質がよいわけでもない作為(ヤク)で片付けるのかよ…と。
それって安易過ぎるし、歴史や歴史を生きた人々に失礼じゃないか、敬意が足りなさ過ぎるのではないか、と。
なんか、乱暴です。
他の方の著作物を個人的価値観丸出しで「批判」するのは、とても気持ちがよくないです…でも、1,800円払って、ドキドキしながらこれから読む人がいたら、ちょっと待って!と、どうしても言いたくなって、書かせてもらいました。
多分、この記事読んだ方も気分がよくないと思います…本当にスミマセン。
気になるけど作為ってのがたぶん私も合わない気がするなあ。
図書館で見かけたらちょっとだけ読んでみて、それから考えます。
いつもためになる批評ありがとうございます!