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三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

人物列伝其の2 士一族 

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 正史三国志人物列伝
[ 2003/09/17 18:04 ] 正史三国志人物列伝 | TB(0) | CM(7)

 2003/9/17 第2号 発行者:ushisuke [ushisuke@hotmail.com] 
-- 目次
[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]
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 【1】人物列伝其の2 士一族
 【2】三国志言いたい放題
 【3】おまけ~三国志情報
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【1】人物列伝其の2 士一族

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

魏呉蜀の三国がしのぎを削っていた三国時代に、現在の中国・ベトナム国境近くで40数年間に渡って一大勢力を維持していた一族がいました。
人呼んで「士一族」。
彼らは中原から見れば辺境のまた辺境に「士王国」ともいうべき、一族経営的な勢力を保っていました。
一族の長は、90歳という、平均寿命が50歳程だった当時にしては驚異的な長寿を誇った士燮です。
三国志の世界でも特異な存在感を放っている士一族の盛衰は、一族の長である士燮と共にあったといっても過言ではありません。
今回は、中国南隅の辺境に盤踞した士一族の繁栄から滅亡までを、士燮を中心に紹介したいと思います。

●「士王国」繁栄を支えたもの●
大小勢力が激しく興亡を繰り返した三国時代で、士一族が稀に見る長期間の繁栄を維持できた秘密は、何だったのでしょう?
それは、領土的野心を過剰にもつことなく、専守防衛に徹していたこと…その1点に尽きるのではないかと思います。
士一族の舵取り役である士燮がとった施策は全て、専守防衛の発想から出たものとして解釈できると思います。
それを最も示す事実は、士一族が交州の外に向けて行なった軍事的進攻は、40数年間で一度もないということです。
専守防衛に徹しきるために士燮がとった手段は、軍事ではなく主に外交でした。
士燮は様々な外的環境を巧みに利用し、悉く一族の繁栄に寄与させました。
士燮が利用した外的環境の最も大きなものは、中原を主舞台とする乱世の継続と、三国鼎立という緊張した膠着状況です。
士一族に大きな影響を与え続けたのは、孫一族率いる呉です。
ただ、上記の外的環境から、呉には士一族への本格的進攻を図る余裕は、長い間ありませんでした。
呉にとっての主敵は、揚子江一帯の小勢力から劉表、山岳の異民族、そして魏・蜀だったからです。
士燮は呉に進攻されないという外的環境を理解しつつ、さらに積極的に呉の進攻を防ぐ策を設けていました。
積極的な進攻防止策とは、呉にとって士一族が存在する意義(メリット)を示し続けることです。
継続的に翡翠、象牙、犀の角といった珍品の献上をしたり、蜀で反乱を起こした雍ガイらを呉の勢力下に導く仲介を行なったり…呉にとってメリットとなることを嗅ぎ分けて実行し続けました。
士燮は、外交家に必要な絶妙な嗅覚を備えていたといえます。
専守防衛を一族の方針として堅持したこと、一族の長である士燮が、辺境にいながらも大国間のバランスを見極める鑑識眼をもっていたこと、さらに自勢力の存在意義を積極的にアピールし続けていたことこそ、「士王国」繁栄の秘密です。

●士燮、長寿の秘密●
ここで、ちょっと一息…。
衝撃の事実!
長寿には秘密がある、というかなんというか…士燮は、な、なんと一度死んでいます。
死んで蘇って、90歳まで生きたというわけです。
そう言われれば、平均寿命が50歳程の当時において、90歳まで生きた…つまり、現在なら約140歳まで生涯現役で通した士燮の超人的生命力に少しは納得できるかもしれません。
衝撃(笑劇)的な復活劇の経緯は、以下の通りです。
…いつ頃だか、士燮は病死しました。
しかし、病死後3日が経ったある日、ひとりの仙人がふらっとやってきたことで奇跡がおきます。
…そんなにうまいこと来るわけないじゃん!?しかも仙人って…といった疑問はナンセンスです。
仙人は、完全に死後硬直が起こっているはずの士燮に丸薬を飲ませると、おもむろに士燮の頭を掴んで思いっきりシェイクし始めました。
シェイクされることで何故か丸薬は喉を通り、胃で消化され…そして、士燮は蘇ったのです。
そして、士燮は蘇生後4日で生活に支障がないくらいに回復しました、とさ。
んー、これじゃキョンシーです。
「キョンシー士燮」です。
かくして一族の長である士燮が、どんな方法であれ長生きしたことで、その分一族の繁栄ももうしばらく続きました。

●士一族の滅亡●
…士燮もやはり人間です。
流石の「キョンシー士燮」も、90歳で漸く死んでしまいました。
今度こそ本当に死んでしまいました。仙人は現れません。
そして、唯一無二の支柱である士燮を失った士一族は、士燮が死んだその年のうちにスッキリと滅んでしまいます。
40数年に渡った栄華も、士燮の死により、まさに一瞬で無に帰すことになります。
何故か?
滅亡の原因は、孫権の巧妙な謀略と、まんまと謀略に引っかかった士一族次代の不出来にありました。
それまで士一族を委任統治的に支配していた孫権は、士燮の死を契機に、士一族の弱体化と交州の直轄化を一気に進めようとしました。
これより4年後、今の台湾や沖縄周辺への「人狩り」を孫権が強行したことも踏まえると、もはや顕著になりつつあった国力低下を辺境経営強化で補う施策の一環だったと考えられます。
孫権の謀略とは、士一族が根を張っていた交州の分割や、士燮亡き後の交趾太守を士一族からではなく呉の将から任命したことが、それにあたります。
これは、あからさまな挑発行為以外の何物でもありません。
もし士燮が生きていたならば、このような挑発的行為をも従容として受け入れて、「小(名目的地位)を捨て大(実質的支配)を取る」的な対策をとったに違いありません。
しかし、2代目(気取りの)士徽は、公然と反発をしました。
「気取り」と記したのは、士徽には士祗という兄がいたため、普通に考えると士祗が2代目を継ぐのが妥当だと思われるからです。
…2代目を巡る謎については正史からはこれ以上わかりません。ただ、士一族がまんまと孫権の謀略に引っかかったことに変わりはありません。
ここからは、階段を転げ落ちるような悲惨な末路しか、士一族には用意されていません。
一度は籠城を試みた士一族でしたが、一族内の結束の乱れや彼我の歴然とした武力差により、一族総出で呉に降伏してしまいます。
そして、降伏後の生命の安全を保証されていたはずが、降伏後に用意されていたのは保証の反故と騙まし討ちという血まみれフルコース。
士燮の息子はほぼ全員斬首、士燮の親類も後に誅殺されるなどして、一族は歴史から姿を消してしまいます。
こうして、士一族の夢のような繁栄は、跡形もなく消え去ることになりました…。
上記のように、士一族のあっけない滅亡の直接的原因は、士一族次代の不出来にあったことは明らかです。
ただ厳しい言いかたをすれば、滅亡の遠因は、士燮にあったとも言えるかもしれません。
一族の長として士燮の長すぎた現役生活が、一族の繁栄と共に後継の育成不足を産んだのではないか?ということです。
いつの時代もそうですが、2代目による繁栄の持続というのは難しいものなんですね。

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

士一族DATABASE

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

[名前]
士燮 威彦
[生年]
136年
[没年]
226年
[出身地]
蒼梧郡広信
[主な血縁]
父:士賜
弟:士壱、士イ、士武
士燮の子:士キン、士祗、士徽、士幹、士頌
士壱の子:士匡
[主な年表]
177~186年頃:
士燮が交趾太守となる。
188年頃:
士燮の弟・士壱が、司徒・丁宮より招聘されて洛陽へ(翌年頃には帰郷)。
197年頃:
交州刺史・朱符が殺害されたことをきっかけに、士燮が上表して士壱ら弟を交州各郡の太守とする。士一族による交州支配が本格化。
210年:
孫権より歩シツが交州刺史として派遣される。士一族は孫権の勢力下に。
223年:
益州郡の豪族・雍ガイらが糾合して反乱勃発。士燮の働きかけで、反乱が起きた益州4郡が呉の勢力下に(225年、諸葛亮の南征により再び蜀の勢力下に)。
226年:
士燮死去。
呉の将・呂岱の策略により、士燮の息子6人(士徽ら)斬首。士壱、士イ、士キン、士匡は官位剥奪のうえ庶民に落とされ、士一族は一掃される。
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【2】三国志言いたい放題

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

長いことご無沙汰をし、スミマセンでした。
音信不通となっていた間に、約2週間のミャンマー旅行をしてきたりしました。
ミッチーナやバモーといった、雲南省に近接するミャンマー北部の都市をぷらぷらしてきました。
むせかえるような濃密な緑に囲まれ、湿気の多いミャンマー北部を旅行しながら思いを巡らせたのは、やはり諸葛亮の南征ですね。
今から約1,800年前に、獣道に毛が生えたような道しかなく、高温多湿な密林地帯にはるばる遠征した諸葛亮他の苦難は計り知れません。
…ということで折角、南征に思いを馳せたりしたので、第3回目は南征及び南方経営に多大な功があった蜀将・張嶷を予定しています。
乞うご期待!
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【3】おまけ~三国志情報

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

今回は三国志の世界を疑似体験できるゲームとして、携帯版「三國志」を紹介します。
「三国志ゲーム」の代名詞ともいうべきコーエーが展開している携帯コンテンツのひとつです。
史実武将になるか、架空の武将を作って中華統一を目指す…というシステムは、PC版「三國志」の簡略版のような感じでとっつきやすいです。
そんな携帯版「三國志」の特色は、なんといってもネットワーク形式で遊べる点です。
複数のプレイヤーで陣営や軍団を形成し、掲示板や携帯メールで意見や情報の交換を行ないつつ、戦略や戦術を設定していく…これは、なかなかスリリングで楽しいです。
燃えてきます。
…ちなみに、私は馬超陣営にいるのですが、今のシナリオは、謀反を起こして独立した程普陣営が統一しそうです。
興味があったら遊んでみてください。
[名称]
三國志
[提供]
コーエー
[月額]
300円(税別)
※別途通信料要。
[サイトURL]
http://s.koei.co.jp/s/servlet/Sanj?uid=NULLGWDOCOMO" TARGET="_blank">http://s.koei.co.jp/s/servlet/Sanj?uid=NULLGWDOCOMO


[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]
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