三国志漂流

すべての「三国志」にLOVE&RESPECTが大前提。さらに自分の価値観や解釈でどこまで切り込んでいけるか…のんびりと「新しき三国志の道と光」を模索するBLOGです。

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人物列伝其の4 劉表 

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 正史三国志人物列伝
[ 2003/11/16 18:08 ] 正史三国志人物列伝 | TB(0) | CM(7)

 2003/11/16 第4号 発行者:ushisuke [ushisuke@hotmail.com] 
-- 目次
[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]
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 【1】人物列伝其の4 劉表
 【2】三国志言いたい放題
 【3】おまけ~三国志情報
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
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【1】人物列伝其の4 劉表

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

「表向きは寛大でありながら内心は猜疑心が強く、謀略を好んで決断力がなく、有能な人材がいても用いることができず…嫡子をしりぞけて庶子を後継者に立てて、礼制をかえりみず…」
以上は、『正史』の著者・陳寿による劉表評です。
元々ピリッと辛口な傾向にある陳寿ですが、袁紹と一括りにしたうえで、劉表に対して散々な評価を下しています。
後漢末の大混乱期にあって、激戦区・中原に接する広大な荊州1州の平和と安定を、まがりなりにも約20年間維持し続けた人物に対しては、ちょっと酷評じゃないか?とも思えます。
今回はまず、前述のように陳寿から酷評される所以を、劉表個人の業績から紹介します。
でも、『正史』にあるバッシング記述を追って紹介するだけじゃ芸がありませんね。
なので、あと2つ。
1つ目は、「儒者」としての劉表のマスクを剥ぎ取って、素顔の劉表を明らかにします。
2つ目は、劉表個人の業績に定点的なスポットを当てるだけでなく、劉表の業績に歴史的な観点からも光を当てることで、逆に彼を再評価してみようかと思います。
ぜ~んぶ読んだ後に、「…なかなか面白いじゃん、劉表」と思っていただければ御の字です。

●治世にあっては一流の政治家、乱世にあっては二流の政治家●
まずは劉表の略歴を元に、彼の人物像を浮き彫りにします。
彼の出生はれっきとした漢王室に通じる家柄に源を発し、有栖川宮事件なんかと比べるべくまでもなく、皇家出身です。
「漢王室の末裔だ!」と、誰も信じないような大法螺を吹いて回る劉備とも異なります。
しかも劉表は、若年より儒教を学び、かつ儒教界において名声を博すという、完全なるエリート街道まっしぐらな人生のスタートをきります。
しかし、169年大きな挫折を味わうことになります。
劉表27歳の折、清流派に対する迫害である「第2次党錮の禁」に逢い、追求を逃れて逼塞せざるを得なくなります。
この宦官が行使した政治権力による理不尽な失墜劇は、まだ若い劉表に拭いきれない衝撃を与えたでしょうし、彼の今後の長い政治家人生に少なからず影響を与えたはずです。
逼塞してから大将軍・何進に抜擢されるまで、劉表は長い時間歴史の表舞台から消えてしまいます。
…劉表が逼塞している間に世の中は変わり、風雲急を告げるようになります。
戦乱の始まりを告げる黄巾の乱が勃発。
宦官により迫害を受けている士大夫と黄巾の叛乱者とが結びつくことを恐れ、「党錮の禁」が解除されます。
「党錮の禁」が解除されたあと、ようやく劉表は何進が掌握した国政の中枢に参加する機会を得ます。
政治家としての第2の人生が幕を開けます。
劉表の大転機は、董卓政権による荊州刺史への任命からです。
このとき、既に劉表48歳。
若い頃から「八俊」の一人だとか何とかもてはやされていたわりには、遅い出世です。
南陽に居坐る袁術、長江周辺で暴れまわる孫堅のプレッシャー、前荊州刺史殺害で混乱の極みに達している荊州領内…こんな大変な状況下で、新任の劉表は荊州に単騎乗り込みます。
晩年には全く影をひそめる颯爽とした勇姿を思い浮かべることができるシーンです。
さらに入荊後の劉表は、その人生で随一であろう決断力を見せます。
地元の有力豪族であるカイ兄弟、蔡瑁を招き、早速荊州での権力掌握と治安回復のための方策を討議。
討議の結果、金をちらつかせて荊州各地の叛乱首謀者を55人も招聘し、まとめて騙まし討ちにしてしまうという荒療治で決着をつけてしまいます。
「改革」に燃える、熱い一人の政治家の姿をそこに見ることができます。
…しかし、治安回復が一段落し権力が安定してくると、劉表は政治家としての精彩さを一気に欠いていきます。
失うものがなかったガムシャラな時期から、手に入れた権力を守ることを第一とする時期に移ります。
政策の中心は、よく言えば「中庸」、悪く言えば「中途半端」。
中立を貫くことで、荊州1州の平和が守れると考えていたのでしょうか。
198年呂布討滅戦、200年官渡の戦い、207年烏丸征伐…曹操の本拠地が手薄になる機会は幾度も訪れたにも関わらず、劉表は動きません。
官渡の戦いの際は、荊州南部での張羨による叛乱鎮圧で手が回らなかったという言い訳もあるけれど…優柔不断は否めません。
あと、劉表の行動は優柔不断なだけならまだしも、何だか姑息な臭いがします。
例えば、劉表と戦った武将は「流れ矢」に当たって死ぬというジンクス。
長安での抗争に疲れた飢餓軍団を率いて劉表領に侵入した張済も、そして襄陽攻略にあと一歩と迫った孫堅も、奇しくも同じように「流れ矢」で死んでいます。
さらに、張済の従弟である張繍が宛で曹操を襲ったときも、危うく「流れ矢」で曹操は死にそうになっています。
このとき張繍と結び、密かに裏で操っていたのは劉表でした。
たまたまかもしれないけれど…暗殺を旨とする特殊部隊なんかを囲っていたんじゃないか?と疑いたくなるほど、姑息です、劉表。
そんなこんなで、劉備が流れてきても重く用いず、10万の軍兵を養っても軍事行動を起こすでもなく…手を拱いて天下を傍観する劉表。
そんな劉表を尻目に、力を蓄えた孫一族は、長らく孫一族への防波堤を勤めていた黄祖を遂に討ち、また北方を完全に制圧した曹操は、虎視眈々と荊州を狙い始めます。
荊州の平和が風前の灯となったとき、劉表は半ば無責任に一人急死します。
劉表の死後も、彼の生前の優柔不断さが影響して荊州は後継者騒動に揺れ、結果あっけなく曹操の軍門に降ることとなります。
…以上が、劉表個人の人生です。
曹操の幕僚として活躍した賈クは、「劉表は平和な時代なら三公になれる人物である」と評しています。
ただ、乱世向きの人物ではなかったように思います。
許劭風に言えば、「治世にあっては一流の政治家、乱世にあっては二流の政治家」といったところでしょうか。

●儒教界のマスクマン●
劉表が語られる際に常に取り上げられるのが、「儒者」としての劉表です。
事実、三公に就任経験もある王暢の元で17歳前後に学問として儒教を学び、若い頃から八俊、八友、八顧などと呼ばれ、その名を広く知られていたといいます。
また、清流派に対する弾圧行為である「党錮の禁」の折も、八俊の一人である劉表は逃亡して追求を逃れざるを得ない状況になりました。
※ちなみに八俊の一人である李膺は獄死し、師であり同じく八俊の一人である王暢は、地方で寂しく死んでしまいます。
劉表の儒教的な学識が浅くなかったこと、若いうちから儒教界で名声を博していたことは間違いありません。
しかし、劉表本人に、儒者としてどれだけ本質的な自負があったかは疑わしいのではないか?と思うのです。
なにしろ、妻子に対する私情に溺れて、儒教で重要視される長子相続の大原則を乱してしまったのですから。
長男・劉琦を差し置いて次男・劉琮を溺愛し、劉表の死後、儒教で大切にされる長子相続の原則に反して次男・劉琮が当主に。
袁家ほどではないにしろ後継者を巡った荊州内部の混乱を衝かれ、曹操に難なく荊州丸ごと奪われるという悲喜劇を招きました。
…私は、こう考えるのです。
劉表の儒者としての振る舞いや儒教及び儒者保護といった行動の多くは、政治的パフォーマンスだったのではないか?と。
劉表の儒者としての顔は「仮面」です。マスクマン劉表。
儒教及び儒者保護の最大のパフォーマンスは、儒教を下地にした「学校」の設立です。
劉表は荊州内がひとまず安定したときに、領内に「学校」を設立しました。
この「学校」は、洛陽にある「太学」を思わせます。
「太学」は儒教の国教化を遂行した漢の武帝が、儒教思想統制のため、また官僚養成を目的として洛陽に設立しました。
太学への遊学は、儒教を学ぶためのものであると同時に、中央政界で立身出世を図るためへの登竜門のようになっていました。
劉表は、洛陽の「太学」に似たような施設を荊州に設立したのではないか?と考えます。
通常は儒者である劉表が、儒教的文化を荊州で育むために「太学」を作ったものと書かれることが多いようです。
しかし、この「学校」設立については、むしろ劉表政権の官僚となるべき人物の発掘と養成、劉表派ともいうべき派閥(政党)の強化的側面が強かったのではないかと考えます。
劉表は若年の頃、「党錮の禁」によって政界での大きな挫折を味わっています。
儒者である以前に、政治権力への執着が人一倍強かっただろうことは、想像に難くありません。
彼は身一つで荊州へ入国し、地元の豪族である蔡瑁やカイ良・カイ越兄弟らに縋って、苦労の末にようやく一応の政権的な基盤を作り上げました。
苦労の末に築いた基盤を強化するため、次に劉表が欲したのは、異郷である荊州において政権を維持するための強固な支持基盤だったに違いありません。
親劉表的人物を若いうちに発掘・養成し、官僚としてまたは家臣として劉表政権内部に組み込み、荊州に着々と親劉表派閥を浸透させる…という思惑があったのではないかと考えます。
他にも儒教及び儒者保護のパフォーマンスは、儒教批判の色を強める曹操を嫌う、もしくは曹操に受け入れられない人材の獲得にも大きな効果を発揮しました。
キ毋ガイ、宋忠らが編纂した『後定』は、その産物です。
ただし、集った儒者たちが、政治的な実務や軍事でどれほどの力を発揮できたかは謎ですが…。

●歴史の橋渡し●
劉表個人としては、とくに壮年後期~晩年にかけて優柔不断で、保守的なイメージが強くなります。
それは私たちが日常テレビなどで見聞きしている政治家のイメージに近く、何だか精彩に欠け面白味がない人物です。
しかし、ちょっと見方を変えて「歴史の中の個人」、つまり「歴史という名の舞台に立った一人の役者」として見ると、また違った面白味が出てきます。
個性溢れる人物でいっぱいの乱世にあっては、キャラクターとしてどうにも冴えない劉表ですが…歴史という舞台ではとっても重要な役者としての存在意義があったように思うのです。
その存在意義とは、後漢末群雄割拠の大混乱期から、劉備の蜀建国、つまり三国鼎立期への重要な橋渡し的役割を意識的か無意識的に担っていたと考えられます。
蜀は益州出身者はもちろんのこと、とくに前~中期は荊州出身者によって支えられ発展しました。
蜀の法律である『蜀科』作成に関わった諸葛亮、伊籍や、諸葛亮後の蜀を担った丞相・蒋エン、諸葛亮にその才を愛された馬謖とその兄「白眉」馬良etc.数え挙げればキリがありません。
※伊籍は正確には荊州出身者ではないけれど、蜀政権内では荊州閥に属していたので、ここに含めます。
戦乱の中を生き延び、教育を受け、指導者として成長を遂げるためには、年長者である黄忠は例外としても、居住地における安定はある程度必要だったでしょう。
その安定をもたらしたのが、劉表による荊州支配だったと考えます。
戦乱期にあっては、優柔不断、英雄に必要な野心の欠如は否めず、勢力拡大の機会を悉く逸して、荊州1州の安定維持に腐心した劉表。
政治的な思惑があったにしろ儒教及び儒者を積極的に保護し、戦乱期にはそぐわない文化的風土作りに没頭したと酷評される劉表。
しかし、それらのマイナス要素として語られがちなことどもも、次代への人材輩出という結果に繋がりました。
荊州の文化的風土が影響したのか、蜀で活躍した荊州出身者は、武勇を誇る人物よりも、脳髄から搾り出される知略の光る人物の方が多いように見えます。
刺史が殺され、各地で一揆が頻発するという混乱状態にあった荊州の治安を回復し、荊州1州の安定を約20年に亘って維持し、風土を育み、最終的に三国鼎立実現のための地盤と人材を、次代たる劉備に引き継ぐ…という劉表の歴史的な存在意義。
『正史』でも『演義』でも冴えない劉表も、歴史的に与えられた「役者」を演じるための必要不可欠なキャストだったんだ…と思えてくるものです、よね?

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

劉表DATABASE

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

[名前]
劉表 景升
[生年]
142年
[没年]
208年
[出身地]
山陽郡高平県
[主な血縁]
長男:劉琦
次男:劉琮
三男?:劉脩
甥:劉磐
義弟:蔡瑁
外甥:張允
[主な年表]
190年:
孫堅が荊州刺史・王叡を殺害したため、董卓政権より荊州刺史に任ぜられる。
191年:
襄陽城外で孫堅を戦死させる。
192年:
董卓誅殺後の混乱期に、荊州牧に任ぜられる。
200年:
長沙、零陵、桂陽の3郡で長沙太守・張羨(息子・張懌)が叛乱(数年後に鎮圧。
荊州全土平定成る)
201年:
汝南から敗走してきた劉備が身を寄せる。
203年:
袁紹死後、曹操が豫州と荊州の境(西平)まで一時的に進出。
208年:
劉表、悪性のできものが原因で死去。直後、後継者・劉琮が荊州1州あげて曹操に降る。
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【2】三国志言いたい放題

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

第3回で紹介した張嶷に付け加えます。
『演義』で描かれる張嶷について。
張嶷は『演義』第111回で、『正史』と同じく北伐の中で戦死するのですが、その死に方が全く異なります。
『正史』では、魏将・徐質との合戦中に落命する…というのが、前回お伝えした内容です。
ただし『演義』では、253年に発生した徐質との合戦後も張嶷は生き延びます。
そして256年段谷にて、鄧艾・陳泰との合戦で敗走する姜維を、張嶷は数百騎のみを率いて救援中、矢の雨を受けて壮烈な戦死を遂げることになっています。
また、『正史』では諸葛亮の北伐に参加した記述がないはずの張嶷も、『演義』では諸葛亮の北伐の度に従軍しています。
このように、『正史』と『演義』では記述が異なる箇所が結構あるのですが、あくまでも本メルマガでは『正史』にこだわっていくので混乱しないでください。
あともうひとつ。
今回紹介した劉表に関して、儒教人士による「襄陽サロン」の形成とその影響…といった内容の面白い論文を掲載しているサイトがあります。
「襄陽サロン」の形成も、『後定』と同じく劉表が行なった儒教及び儒者保護政策の落とし子です。
是非一読してみてください。
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/ryuuhyoutojyouyou.html" TARGET="_blank">http://www.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/ryuuhyoutojyouyou.html
…さて、次回のお知らせです。
第4回は、袁家を滅亡に導いた後継者騒動の主役の一人・袁尚でお届けします。
今回の劉表もそうですが、三国志では後継者問題がアチラコチラで噴出します。
霊帝の死後に起こった少帝・献帝の廃立を巡る争いに始まり、劉表の死後は劉琦・劉琮が、袁紹の死後は袁譚・袁煕・袁尚が、曹操の後継者として曹丕・曹植(・曹沖)が、孫権の後継者として孫和・孫亮が、そして劉備の後継者として劉封・劉禅が…否応なく後継者騒動の激流に飲まれてしまいます。
それぞれ原因は異なりますが、『正史三国志人物列伝』でもこれからちょくちょく取り上げていきたいです。
その手始めに袁尚を…というわけです。
乞うご期待!
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【3】おまけ~三国志情報

[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]

長すぎるらしいので、詳しくはコチラへ。
http://www.melma.com/mag/04/m00095304/" TARGET="_blank">http://www.melma.com/mag/04/m00095304/


[ 1970/01/01 09:00 ] [ 編集 ]
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