あけましておめでとうございます!
年末年始出ずっぱりの「
劇団ひとり」、ウケますね!
…さて1年の初めなので、初心に帰る意味も込めて、今回は「三国志」の原点に戻ってみようかと思います。
今日私たちが、「三国志」でドキ胸な状態になれるのも、『正史』の著者である陳寿(233~297年)のおかげです。
彼が筆を取らなければ、そもそも1800年も昔のことなんかマニアックな学者が知るのみの世界だったに違いありません。
そして、陳寿が著した『正史』に対して、様々な文書から関連記事をひっぱってきて「注」を加え、「三国志」の世界をグッと広め深めたのが裴松之(372~451年)です。
…と、ここまでは偉大なお二人の紹介だけです。
しかし、陳寿と裴松之が生きた時代背景を考えると、彼らが「三国志」に携わってくれたことの奇跡を、私は実感するのです。
キーワードは、「
正統派異端系」。
後漢→魏→西晋という中国史の正統的系譜をメインとする『正史三国志』。
普通なら、正統系政権である「魏」に記述が偏重し過ぎる書物となりかねなく、そうすると現在のように「三国鼎立」の物語を愉しめなくなっていたかもしません。
しかし、中国4千年の歴史は、ひとつの奇跡を用意してくれました。
『正史』の著者・陳寿は、蜀生まれの蜀育ち。
彼が30歳のとき、仕官していた国である蜀が滅び、その後西晋に使え『正史』を著述したという経緯をもちます。
陳寿は、異端的系譜を母とするマイナー人物だったのです。
さらに、裴松之は「南北朝時代」という分裂時代に生き、南朝・宋に仕えた人物。
中国の覇権争いのメイン舞台である「中原」を領有とした北朝に対して、南朝は主に長江沿いを領有とする異端系政権でした。
そして長江沿いは、三国時代では呉・蜀政権があった故地。
しかも!南朝・宋は皇帝が「劉」姓を名乗る王朝でした。「劉」つながりといえば、そう!「蜀」と同じです。
…長々となりましたが、何が言いたいかというと、陳寿、裴松之が異端系政権である呉・蜀にゆかりのある人物だったおかげで、正統系政権である魏との三国のバランスが保たれ、まさに「三国志」の物語が形成されたんだ!ということです。
「三国志」の面白さは、三国時代当時の綺羅星のような英雄たちの活躍だけでなく、そういった英雄たちの活躍を著述として残した陳寿、裴松之といった正統派異端系の人物のおかげと言えますね。