三国志の中でも、かなり有名ですね。
「馬氏の五常、白眉最もよし」の「白眉」こそ、誰あろう馬良、その人のあだなです。
由来は、以下の通り。
…三国時代、荊州馬氏に
5人の兄弟があって、その5人ともがとってもよく出来た子でした。
5人の兄弟はみんな字に「常」がついていたので、馬氏を知る人々から「馬氏の五常」と称されていました。
「泣いて馬謖を斬る」で後世に名を残した馬謖(幼常)も、この5人兄弟のひとりです。
そんな5人兄弟の中でも、馬良(季常)がもっとも将来を嘱望された人物でした。
その馬良は、眉毛の中に白い毛が混じっていたので「白眉」と呼ばれた…ということです。
…ちなみに、なんで5人兄弟中馬良だけが「眉毛の中に白い毛」が混じっていたのか?
原因は明確にはわかりませんが、「白髪」の原因から考えてみるのも手かもしれません。
白髪の原因には
■遺伝
■加齢
■生活環境
■病気(慢性の胃腸疾患、
マラリア、貧血症、甲状腺疾患などの影響)
■ストレス
などがあげられるそうです。
「兄弟でひとりだけ」「若い頃から」ってところに注目すると、「白眉」の原因は「病気」か「ストレス」ですね。
『正史』には、馬良が若い頃に苦学したなどとの記述がないので、ストレスも考えにくいから…多分病気でしょう。
しかも「若い頃から」も踏まえると、マラリアか貧血症あたりじゃないでしょうか?
あんまり朝とか強そうじゃない馬良の姿が見えてきましたね。
…「白眉」自体の考察はこの辺にして、馬良自身の経歴を見てみます。
実際、彼は36歳の若さで戦死するまで、「左将軍掾」(「左将軍」は劉備のことなので、劉備の秘書官的な存在でしょうか?)→「侍中」(帝位についた劉備の政権における秘書長)と重職を歴任し、主に劉備の側近として出世の階段を登っていきました。
さらに、外においても力量の片鱗を見せます。
東征に赴く際に異民族を説き伏せ、貴重な戦力を獲得することに成功したのです。
しかし、蜀政権で順調に出世を続ける馬良は、夷陵の戦いにおいて大混乱の最中に戦死してしまいます。
「これから」ってときに…「白眉」の本領を発揮する前に死んでしまったことは、本当に悔やまれます。
…そして、馬良が死んでから約1800年後、日本でも「白眉」が世間を騒がせました。
村山富市です。
悪い方向へ日本の舵を取った人物のひとりこそ村山富市である…と私は思っているので、このコトバを送ります。
「村山氏の11人きょうだい、白眉最もたち悪し」